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号外3 山代巴ほか編『原爆に生きて』より――「山代巴文学を語る集い(2011.11.6)」への誘い――

号外3 山代巴ほか編『原爆に生きて』より――「山代巴文学を語る集い(2011.11.6)」への誘い――

 私(甲斐等)は、10/14~10/16の2度目の福島訪問から帰宅後、放射能の「晩発性障害」に立ち向かうために最終的な気持ちの整理を行う必要を感じていた。そのためか、我にもあらず、ふと、上下町の「白壁の街並み」を歩いてみたいと思い立った。中国山地の分水嶺にある上下町はかつて天領として独自の気風を持っていた地域であるが、今は、市町村合併の結果、同じ府中市の一部となっている。
8月23日(日)、昼過ぎには帰宅して机にかじりつくつもりで、朝8時の下りの電車に乗り込んで、山ふところの方角に向かった。府中駅の隣の下川辺駅を出ると、周囲の風景は一変する。下川辺駅まではいわば温和でなだらかな山陽路であるが、そこから奥に向かうと、もう中国山地の風景である。電車は木々の間をあえぎながら登っていく。
 残念ながら、私はまったく自由な心で休日の電車に揺られているのではなかった。
 風の噂では、上下町には原発を憂い、福島の人びとを気遣っている人びとが少なからずいると聞く。隣の上下町にそうした仲間がいてくれるのであれば、たいへん心強いではないか。上下町は観光地としての街づくりを進めているから、感じのいい喫茶店もいくつかあるだろう。そうした店のいくつかに入って、会報「ジュノーさんのように」を示してみれば、何らかのリアクションが得られるはずだ。
 それに、山代さんは一時期上下町に住んで、上下町周辺のことに力を注いでいた。いや、むしろ、山代さんが中国山地のことに入り込んでいく出発点は上下町にあったはずである。なのに、なぜかそのあたりのことはあまり表面に出てこない。これはどういうわけだろうか。この空白部分は、案外本質的に重要な問題を含んでいるのではないか。上下町の古い街並みに何かちょっとしたヒントでも見つからないだろうか。
 そんな思いもあって、私は朝9時には既に、まだ人通りの全くない「白壁の街並み」に立ったのである。
 成果はどうだったか。
 第1番目のことに関しては、確かに上下町には福島の人びとを助ける仲間がいるようであった。出会った人びとの感触から、私は、そのような気配を感じることができた。「文化的には府中より上下のほうが高い」と自負する人びとの中から、ほんとうに「いのち」を守ろうとする動きが表面化するなら、それはとても大きな意味がある。期待したい。
 第2番目のことに関しては、ふとした偶然から、「横山文江」さんにお会いすることができた。1953年出版の『原爆に生きて』の執筆者の一人である。このような偶然が用意されていたというのは、これは必然であろう。フクシマが私を上下町に赴かせ、「横山文江」との邂逅を用意したのである。
 私は今回の「横山文江」さんとの出会いから、山代さんの上下町での活動について大雑把な輪郭めいたものを得たと思っている。しかし、それよりも私を驚かせたことは、『原爆に生きて』から58年後の今日の「横山文江」さんの話の内容が、58年前の『原爆に生きて』に収録された手記の内容と、ほぼ全く同一であったことだ。同書に「(吉野)村には医者がいなかったので、お父さんは気の毒だったが、暑い日中を車に乗せて、上下町の医者に通った」と記されている「上下町の医者」が固有名詞で出てくることや、結婚後のことなど、「横山文江」の手記に出てこないことももちろん話されたが、途切れることなく話されたことの90%以上が『原爆に生きて』の手記と同一のものであったと言ってよい。『原爆に生きて』に書いた事実は、「横山文江」さんにとって、終生、忘れようとしても忘れられない真実だったのであろう。
 『原爆に生きて』は、このような真実を書き刻んだ「いのちの生活記録」だったのである。
 以下に「横山文江」の手記の冒頭部分を紹介する。今日もしくは3~4年後のフクシマを重ねて熟読してもらいたい。(『原爆に生きて』は、日本図書センター刊の『日本の原爆記録』第3巻に収録されている。最寄りの図書館で読んでいただければ有難い。)
 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

(『原爆に生きて』所収、横山文江「甲神部隊の父」より) 
 七日朝登校の途中、上下(じょうげ)町の警察前に一台の自動車が止まって、黒山のような人だかりなので、どうしたのかと寄って見ると、顔は土色に腫れあがり、眼の玉は飛び出し、唇やまぶたはめくれて赤くなり、ひどく臭い人が立っている。私は冷や水を浴びたようにぞっとした。人の話を聞くと昨日広島でやられた人だといっていた。私は急いで登校し、先生につげて、同じように父が広島に出ている人達と上下駅へ行き、一日四、五回のわずかな回数に下車する人々に父達の消息を尋ねたが、ボロボロの服に黒い顔で、足を引きずるようにおりて来る被害者達は、自分の事だけでやっとらしく、他人の事など分る筈がなかった。
 父達には八月二日に召集が来て、広島市の警備及び家屋疎開整理作業とかで、特設警備隊として一週間の予定で出ることになり、各々がスコップ、ツルハシ、鋸、玄翁、木槌、なた、等の道具をかつぎ、米や焼塩等の食糧を負うて、四日の午後上下町警察の裏にある武徳殿へ集まったのだった。それは甲奴、神石両郡の四十をすぎた男と、十八歳未満の青年三百名ばかりで編成され、甲神部隊と呼ばれて、見送りもさけ、五日早朝上下駅をたち、翌六日朝、甲奴の人々は起床して支度中に被爆したと言う話だ。
 私達は毎日父の安否を尋ねる不安な日を続けた。十日、庄原町へ帰っている人に父らしい人がいると、知らせてくれる人があって、母は取りあえず下着と着物一枚持って行った。私達はどうか父でありますようにと祈っていたが、父ではなく同姓の人であったと、母は夕方ションボリ帰って来て、
「もうお父さんは助かっては居られないかも知れないが、皆気を落ちつけて頑張って行かにゃあいけん」
と言われた、でも出発のきわまで、
「私は四十六になるまで、病気で寝たことがない」
と、丈夫なことが自慢だった父だけに、死んでいるとは思えなかった。
 十二日夕刻、不意に上下駅へ元気で帰ったから迎えに来いと、人が伝えて来てくれたので、家族の者は夢中になって、部落の人と一緒に荷車を引いて行った。私と妹が留守番をさせられた。車の音や話声がする度、外に出て、待ちあぐんでいると、二時間位して、父は竹の杖を持って車からおりられた。私は安心と嬉しさに、お父さんと言って泣いてしまった。お父さんは足の甲へ一銭銅貨位の火傷をして、頭にちょっとかすり傷をしただけで、他の人のようにひどくなかったから、一緒に出た甲神部隊の人々の世話をしてあげたから、人より少し遅くなったのだと大変元気に話して、そして自分が知っている限りの人々に、自分の帰宅を知らせるハガキを書かれた位気も確かであった。
 村には医者がいなかったので、お父さんは気の毒だったが、暑い日中を車に乗せて、上下町の医者に通った。医者は手当がよくわからず、普通の手当しかしてくれなかったが、医者を頼って行く人は多かった。医者の待合室では、毎日のように甲神部隊の人々の死なれたことを聞かされた。武徳殿には上下駅へ下車した被害者を五六十人も収容していたが、そこで死ぬる人もあったし、そこから車に乗せて家まで届けられて、間なしに死んでいった人もいるし、今日は武徳殿にいる人が二人死んだ、領家(りょうけ)の方にも死んだ。上川(かみかわ)にも矢野(やの)にも清嶽(きよたけ)にも、死んだ死んだと言う話ばかりで、心細かった。けれどお父さんは元気だし、大した怪我はないし、力強く思っていた。十八日に兄が復員して来た。父を見て驚いたけれど、まあまあ一家揃って一安心だと、父は嬉しそうであった。
 斑点は初めは腿や腕の方へ出だした。着物を着かえさせるのに母が気づいて、おかしいから、医者へ行って今日は聞いて見い言うから、聞いて見たら、
「蚤か蚊が食うたんだろう」
と医者は言われた。そうかなあと思ったけれど、うちには何ぼう蚤や蚊がいると言っても、そんなに沢山いるか知らんと、不思議に思った。斑点は初めは赤く、次第に紫になって、数が毎日ふえる。家の者は皆変だと思うけれども、医者は元気だからと言って注射もして下さらなかった。他家には髪が抜けるというが、うちには髪も抜けないし、まだ斑点の出た話は聞かぬので、絶対になおる気でいた。ところが二十二日頃から熱が出だして、二十三日には四十度を越えていた。二十四日、医者の帰りに暑さがひどかったので、車へ寝て帰った。
 夕方食事をしながら母が、どうも今夜は眠いから、誰か代ってお父さんを見てくれと言われるから、私はいそいで食事をすませて、母と代ったが、ものの三十分もしないうちに、何か分からない事を口の中で言い出され、終りには何かわからなくなってしまった。兄は熱の為だろうから、そっとしておいた方が良いと言うので、眠いのを我慢して蚊を追っていると、急に様子が変った、脈が変になった。お母さんを呼んだけれど、皆な来た時はもう駄目だった。私は余りに急なので、答えぬ父を必死に呼んで泣いた、部落の人が来て、元気を出すのよ、悪かったのうと泣かれると、泣けて泣けてしかたがなかった。
 上下町から四里位奥の神石郡高蓋(たかふた)村キツワの方で、父等と共に被爆した人が、くやみを言いに来られたから、うちのは斑点が出来て、こう言うふうにして死んだと、様子を話してあげたら、
「己はまんだ斑点やなんど出ちゃあおらん」
と言って、兵隊シャツをまくられたら、もうぽっぽっ赤い斑点が出ているから、びっくりして、母も私もつい
「こかあなのが、だんだん紫になったんじゃ」
と言った。キツワの人はびっくりして、
「ほんならまあ見てくれ」
と言って裸になられたら、背中の方にももう斑点が出ていた。この人は一人おやじ(家中ただ一人の男)で、もしもの事があったら、女ばかり残るのだから、言ってあげねばよかったと後悔して、
「まんだこりゃあ赤いけえ、早ういんで寝なさい、三里も四里も自転車を踏んでんない方がええよ」
と言ったら、びっくりして、自転車を押して帰られたが、半月もせぬうちに死なれたと言うことを聞いた。
 吉野村の小学校長、山田八郎先生は、あの日ちょうど出張中の電車の中で被爆され、
「自分は伏せたけえ、こうように無傷だ」
と言って、半分焼けた鞄を持って、上下の町中を歩いて自慢していられたが、髪の毛が抜け出して、十月の初め頃死なれた。矢野村の人は血を吐いて死なれたと言うことを聞いた。翌年の二月頃までは、しじゅうどこかで、原爆病で死なれた話を聞いていた。その頃まで甲神部隊の八、九割までが死んでしまわれた。
 母は自分でまだしばらく百姓は出来るからと、兄は元の所へ勤めさせ、私達は学校へ通わせ、あのインフレの苦しい時でも、兄が送る少しの給金を、今日は学校へ幾らいると言えば、必ず出して下さった。こんな母に早く安心させてあげようと思った。しかし世の中は情けもなく今迄とは打って変って冷たく、父一人居なくなればこんなにも馬鹿にされるかと思うことが、度々となった。(以下、略)

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 上記の引用箇所中に、「村には医者がいなかったので、お父さんは気の毒だったが、暑い日中を車に乗せて、上下町の医者に通った」とある。
 吉野から上下までは5キロある。「車」とは荷車のことである。
「横山文江」さんは、「暑い日中」毎日5キロ、お父さんを荷車に乗せて「上下町の医者」に通ったのだ。
 それから66年後、やはり、「あの暑い中、連れていったのが悪かったかねぇ」「気の毒じゃった」という言葉が出てきた。
 中国山地の山間で、このような日常が、あちらでもこちらでも過ぎていった。
 ここにもまた一つの「荷車の歌」がある。
「世の中は情けもなく今迄とは打って変って冷たく、父一人居なくなればこんなにも馬鹿にされるかと思うことが、度々となった」――これは、山代巴文学の中心課題に関係する点であろう。この問題は、はたしてフクシマではどのような現れ方をするだろうか。固唾を呑んで見守っている人も多いはずだ。


山代巴文学を語る集い (2011)
11月6日(日)午後1時~受付/午後1時半開始
会場:尾道市立中央図書館

山代巴さん再評価の機運が高まっています。そして、フクシマの事態に直面した今、山代さんとの新たな出会いが訪れようとしています。 そこで、山代さんの(これまでの・これからの)読者が集まって山代文学から呼吸する――そんな機会をもつことができれば、と考えました。山代さんの命日の前日に、牧原憲夫氏(前東京経済大学教員)を備後の地に迎えて、はじめます。    
     発話者(の一部):
甲斐 等 「フクシマに生きて――まず赤裸な人間に立ちかえることから」
牧原憲夫 「山代巴のめざしたこと」
みんな…… 手を挙げよう、どんな小さな手でもいい

  牧原憲夫さんは、東京で山代さんの一番身近なところにいた歴史研究者で、
  径書房・第二期「山代巴文庫」全8巻(既刊分)の巻末解説を書いた人です。
  主な著書に、『客分と国民のあいだ:近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)、『民権と憲法』(岩波新書:シリーズ日本近現代史第2巻)、『文明国をめざして』(小学館:全集日本の歴史第13巻)、編著に『山代巴獄中手記書簡集 模索の軌跡』(平凡社)などがあります。

主催:中井正一研究会 連絡先:電話 0847-45-0789(甲斐)  入場無料・カンパ歓迎
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ジュノーの会について
「ジュノーの会」は、世界のヒバクシャ支援とくにチェルノブイリ原発事故の被曝者支援に取り組む広島県府中市の市民団体です。会の名前は、被爆後の広島に医薬品15トンを届け、被爆者の治療にあたったスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(1904~61年)にちなんでいます。博士の精神を受け継ぎ、86年のチェルノブイリ原発事故の被曝者支援のため88年に発足しました。会員数は全国に約500人。これまでに延べ約200人の医師を現地に派遣し、甲状腺がんなど1000人以上の患者を診療、一人ひとりの患者さんにカルテ報告を行い、同時に小児白血病治療、血液感染症予防などの医療協力活動、またヒロシマとチェルノブイリのヒバクシャ交流を進めるなど、被災者の側に立った援助活動を続けています。チェルノブイリ被災者市民団体との強い協力関係もあります。

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