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NO.185 車椅子の人が立ち上がって歩いた~第2回福島報告・その1(3)~

NO.185
車椅子の人が立ち上がって歩いた
~第2回福島報告・その1(3)~


4月18日時点でのTさんの手記を引き続いて追いかけてみたい。福島市在住でヤール4もしくはヤール5という重症のパーキンソン病患者であるTさんにとって、放射能からの自主避難は困難である。のみならず、ヘルパーさんたちの支えなしで、ただ独力で生活していくこと自体が甚だ困難であろう。そして、放射能から自主避難できない人びとも、その人びとを支える人びとも、国家による将来的な援護はまったく期待できない。
原子力発電所は正真正銘の暴力装置である。童門冬二氏の『小説上杉鷹山』に「治憲(上杉鷹山)は、老人、病人、こども、妊婦、及びこれに準ずるような弱い人たちを重視した」とある。童門氏のこの記述が史実に基づくものであるならば、原子力発電所と現代の日本国家は上杉鷹山の仇敵である。せめて子どもを、せめて妊婦を、と訴え続けた人びとの願いを無視し続けた(ている)現代の日本政府は、歴史に黒々と無能・愚策の足跡を印し続けている。

Tさんは、自分の病気の経過を記している。
「腰痛が先かパーキンソン病が先か、にわとりと卵みたいな話ですが、どちらが原因疾患で、どちらが誘発疾患になるのか。一時期は、腰痛を治せばパーキンソン病の薬もすぐさま増量せずに済むと思いました。パーキンソン病の発病前に一度、腰痛があったからです。」
「パーキンソン病を発病してから6年間(平成11年~平成17年〔1999年~2005年〕)は、診断名が確定せず、整形疾患と思い込み、リハビリ通いでした。低周波、けん引、赤外線、PT(理学療法士)による徒手的マッサージと、あらゆる物理療法を試みました。しかし、病気は進行していき、腰痛も増していきました。」
「パーキンソン病の発病後3年経った時点で(平成13年〔2001年〕)、腰椎分離症と診断され、第4、第5腰椎に骨棘(コッキョク、ほねのとげ)がはえているとの指摘がありました。平成18年〔2006年〕にも再度レントゲンで、骨棘が残存しているのが認められました。椎間板ヘルニア(椎骨と椎骨にある軟骨が飛び出して神経を圧迫する)ほどでなくとも、腰椎すべり症(腰椎がずれる)になるのを骨棘が受けとめている状態であったとも思われます。」

 Tさんはパーキンソン病であるとの診断を受けてからの日々、病状の進行をくいとめるべく「体調を築き上げてきた」と書いている。
「先輩諸患者のアドバイスを受け、製薬会社の患者健康手帳をもとに、体調を数値化してグラフに表すことにより、私の場合、2週間から1ヵ月の周期で、変調期と安定期を繰り返していることがわかってきました。運動との関係も、動きやすさを表す体感的な指標と歩数計の数値をグラフに落とすと、3~6ヵ月単位の周期で変化することもわかってきました。」
「(薬剤の)新規増投与等があると、ハネムーンと言われる時期がありました。それは実際の運動(歩数計)と動きやすさを感じる体感が相乗相加効果をもたらす時期です。思ったより動く時期です。」
「その後に、主観的に感じる動きやすさと一日の歩数の関係が一致、連動する、思う通りに動く時期が訪れます。感じる動きやすさと実際の動きが、波形にすると一致する時期です。」
「しかし、その頂点から、乱高下しながら一方的に下落に向かい、グラフにするとギザギザに変動する時期を迎えます。動きやすく感じている波形より、実際に動いた波形(歩数計の数値)が著しく増幅された乱高下を示し、やがては、一気に急落する時期です。思ったより動かない時期です。」
「そしてまた、その苦難の時期に耐えて、ゆるやかな自立回復の時期を迎えるか、それとも、耐えられそうにないときは、新規増投与です。苦しい現状を医師に伝えて、薬を上げてもらいます。下落は一気に来て、上昇は徐々に進むのですが、新規増投与で薬に頼れば一気に回復することになります。」
「もっとも薬がすべてではないですし、他の要因でも回復を助ける手立てはあります。また、新規投薬の種類によっては、過敏な受容反応を示して、一時期、乱高下して、そのあとで高水準の安定期を迎えたものもあります。」
 なお、これはTさんの変動パターンであって、パーキンソン病患者全体を指して言っているのではない,とのことである。

 このようにして体調を築き上げてきて、1キロくらいは歩ける状態であったTさんに、大震災が大きな打撃を与えたのであった。腰痛もかつてなく悪化した。
「腰痛もパーキンソン病の症状の一つであり、筋硬直のひとつとして、急激な日内変動の下落には、たいてい腰痛を伴いました。通常はしばらくすれば元に戻ったので安心していたのですが……」。
 大震災以来、Tさんの体調は激変したようである。
「先に述べた骨棘(コッキョク、ほねのとげ)が悪さをしていると考えて、うつ伏せにも仰向けにもなれない激痛に耐え、一度MRI(核磁気共鳴画像法)を受けてみることにしました。その結果、腰椎すべり症はありませんでした。しかし、椎間板はズレてはいないように見えるのですが、脊柱の神経束を見ますと、各腰椎間でへこみが見られるのが気になりました。私の場合、右臀部、右大転子部(大腿骨の骨頭あたり)が第5腰椎の神経根に沿った形で痛み、また、右下肢を上げると30度くらいで痛くなります。かといって、整形外科に行っても、おそらく、手術に至るほど大げさなものではなく、保存的な治療になるでしょう。完治できる特別な治療法があるわけではありません。」
「もし、耐えられなくなった時は、整形外科で神経ブロック注射を試みたいです。」
 
 しかし、こうした激痛を伴う腰痛といえども、それはあくまでもTさんの症状のうちの一つにすぎない。
 パーキンソン病の病状が進行すると、立っているときには背中を丸めて、ひじ、ひざを軽く曲げた前かがみの姿勢をとるようになり、体をまっすぐに伸ばそうとすると、後ろに倒れやすくなる。また、瞬時に手を出して体のバランスをとるということができないために、転倒して思わぬけがをする危険が高くなる(「姿勢反射障害」)などの障害も出てくる。
 Tさんも大震災以後、前傾姿勢がさらに強くなった。
「今のままでは転倒しますので、ボディチューニングで姿勢を直したいと思いました。具体的には歩容の確認と施術を繰り返します。微調整しながら、凝っている筋肉をほぐしたり、ツボ押しをしたり、他動的なストレッチを行ったりするのです。ドーパミン1回分(私の場合はビシフロール0.5錠)に匹敵するような体感がありました。それはオフのときに施術を受けても、正しい姿勢へ導いてくれます。でも、それは6ヵ月限定で終止符です。」
 パーキンソン病では「薬の効いている状態」を「オン」と言い、「薬の効いていない状態」を「オフ」と言う。

 Tさんは、4月18日時点までのパーキンソン病治療薬の薬効については、次のように書いている。
「大震災以来、比較的長い日々、日内変動が低迷し、オンとかオフとか薬効にかかわらず、持続する痛みがあったから不安になりました。激痛が走り、強い固縮の後、オンを迎えても、なお引きずる余韻があり、0からの回復ではなく、-(マイナス)からオンへの回復ですから、薬効が中途半端になり、毎日が苦しくなり、夜は嵐の悪夢が待っています。」
「そのため、パーキンソン病治療薬は効かなくなってきました。1日5回のイーシードパール(ドーパミン含有製剤)は、毎回、薬効の切れ目を感じます。3回目以降、午後の時間帯になりますと、デレイトオン(薬名)を飲んでも効かない時間が1時間から1時間半と、著しくなります。腰をかばうので余計ドーパミンを消費するのでしょうか。それとも、鎮痛剤で食欲がなくなり、薬の吸収も落ちているのでしょうか。」

 4月18日時点までの体調についても具体的に書いている。
「よけい歩きづらくなってきました。1日50歩~100歩、やっと歩いている状態で、何もできなくなり、横になっています。また、背枕、膝枕を使い、90度左側臥位で寝るので、寝返りができず、痛みで中途覚醒します。睡眠不足となり、睡眠効果が低下し、ドーパミンの蓄積を妨げ、明日につながらない、という症状連鎖の悪循環に陥っています。そのため、体調不良が目立つようになり、介護も不定期だったのが常時に増えました。」
 前掲の『パーキンソン病を治す本』によれば、パーキンソン病が進行すると、「姿勢反射障害」のため、歩くときも前かがみの姿勢で、足が高く上がらず、すり足となり、早足で歩幅の狭い小刻み歩行となる、とのことである。この小刻み歩行で、「1日50歩~100歩、やっと歩いている状態」なのである。Tさんは「いまだかつてない危機」を迎えていた。

 この4月18日の時点から、8月27日までは4ヵ月以上経過している。Tさんは、痛みのため1時間と車椅子に坐っていることもできないような状態の中で私の講演を聞きにきてくれたのである。電動車椅子のまま仲間たちの助けを得て2階まで持ち上げてもらい、疲れて、ソファーにうずくまっていたのであろう。
 このような病状の事実を知れば、8月27日に「ジュノーの会貼剤(非売品)」を貼った途端にTさんが立ち上がって歩いたというのは、Tさんの周囲の人たちから、実際、奇跡以外の何ものでもないと思われたとしても、不思議はない。
 それからさらに1ヵ月半経過した10月14日に、私は、杖をついて歩いてきたTさんと話したのだ。Tさんが耐え忍ばなければならない症状については、それまでにもある程度の予備知識を得ていたにせよ、今回ここに紹介したTさんの手記をあとで読むまで、私はまったくの無知同然であった。
(つづく)

梅ドみ 3/28~10/27(木)
 福島市のNPO法人シャロームと連携して、フクシマの被災者の方々にお届けしています。今後は、他の地域のフクシマ・ヒバクシャの方々からのご要望にもお応えできると思います。
 ≪ここに挙げるのは、購入分のみです。多くの方々が、自家製味噌、自家製梅干し(多量集まりました)、乾燥ドクダミ、無農薬玄米などを現物で提供してくださいました(現在も継続中)。特に乾燥ドクダミは、刈って、きれいに洗って、充分に陰干しをして、適度な大きさに切って、ビニール袋に小分けして詰めるのですが、ここまで結構、時間も労力もかかります。頭の下がる思いのすることもあります。また、購入分につきましては、府中味噌組合3社、ひろしま全農、マルシマ食品等、広島県内の製造・販売元の方々が、利益抜きの奉仕価格で特別に提供してくださっています。≫

残高 -483,240円  収入(梅ドみ募金)3,652,516円   支出(購入分)4,135,756円   
(内訳)味噌 4,500kg 1,278,200円; 梅干・醤油 972,875円; 十穀・黒米 32,991円; 無農薬(無化学肥料)玄米 90kg 38,700円; 無農薬(化学肥料半減)玄米 180kg 67,800円; ドクダミ(茶)、青のり、黒ごま、自然塩(天日塩)、ウーロン茶、ほうじ茶、かき葉、はぶ茶、ワカメ、昆布、ニンジンなど 1096,162円; 漢方入浴剤・貼薬材料117,117円;濾紙、ペットボトル27,275円;ダンボール、フリーザーバッグ、粘着テープ、はかり、やかん、容器、アルコール、ハサミ、ピンセット、コットン、レーザープリンターラベル、ペットボトルなど 125,586円;運送費(+郵送費) 379,050円(130回分)

(10/20・木)第127便(ダンボール2箱)
 内訳:(1)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶3、カットわかめ(小)2袋、赤穂の塩3袋、すりごま(黒)3袋  (2)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶3袋、カットわかめ(小)2袋、すりごま(黒)2袋、赤穂の塩3袋、青のり粉3袋
(10/22・土)第128便(ダンボール3箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)3袋     
(10/24・月)第129便(ダンボール3箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)2袋  (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)2袋  (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)3袋
(10/26・水)第130便(ダンボール1箱・クール便)
 内訳:ジュノーの会入浴剤(非売品)50本

  みなさん、ジュノーの会・「梅ドみ募金」に力を貸してください。「梅ドみ」とは「梅干し・ドクダミ茶・味噌」のことです。ヒロシマ、ナガサキを生き抜いた人びとの代表的な養生法を紹介しています。
  毎日1個の梅干し(昔ながらの、天日塩とシソだけの)、毎日1杯のドクダミ茶(ウーロン茶とのブレンドで2~3杯)、毎日1杯の(昆布ダシ、ワカメの)味噌汁――これが基本ラインの目安です。これを毎日続けること。(ドクダミ茶については、?飲みすぎに注意してください。おいしいと感じることが目安です。?妊娠中、授乳中の方は医師か薬剤師にご相談ください。)
  砂糖は摂らないようにしてください。黒ゴマ、自然塩(天日塩)、柿の葉、ニンジン、ハブソウ、ほうじ茶(緑茶は避けたほうがいいのです)などを摂るとよいのです。プレーン・ヨーグルトにも排毒の作用があります。あと、免疫力を高める強力な作用のあるのが「青のり」。青のりを天日塩でうすい塩味にして、ふりかけのようにして食してください。 
 ヒロシマ被爆時には、人びとは藁をもつかむようにして、ある人はドクダミを飲み、ある人はナスの味噌漬けを食べ、ある人はカワラヨモギを食べました。今はいろんな食品で排毒する知恵が見つかっていますので、一つ一つの食品については、過度に食する必要はありません。ドクダミ茶や昆布などは、摂りすぎに注意したほうがよいくらいです。
  たくさんのフクシマ放射能被災者の方々が「梅ドみ」「解毒」を求めておられます。国や県、行政の支援は望めません。待っているわけにはいかないのです。ただちに「解毒」を! 遅れれば遅れるだけ危険が増します。
  どうか、全国の非被災地のみなさんの力で、より多くのフクシマの人々に、「梅ドみ」に代表される「ヒロシマの知恵」を届けてあげてください。そして、ご自分でも、「梅ドみ」を入り口にして、「健康」を求める生活を始めてください。

 いま、私たちは何をすべきか。 
 大筋だけをズバリと言わせていただく。
 まず、初期の医療空白の時代には、呆然と待っていたりせずに、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリで効果があったと伝えられる療法を可能な限り試みることである。
 次に、政治方面の努力を急いでもらって、一日も早く「全科無料定期検診制度」と「全科無料治療制度」を確立すること、そしてそれを守り抜くことである。そのとき、初めて、現代医学は力を発揮するのである。
 (「ジュノーさんのように」第116号より)

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NO.184 車椅子の人が立ち上がって歩いた~第2回福島報告・その1 (2)~

NO.184
車椅子の人が立ち上がって歩いた~第2回福島報告・その1 (2)~

 「Tさんが歩いてこられた!」
 10月14日(金)、朝10時半になろうとする頃、シャローム・スタッフの方の驚きの声が聞こえた。

福島市の「まちなか広場」にほど近い「まちなか夢工房」。1階がパン屋さんで、2階は事務室、会議室等に使われている。2階の、通りに面した広い部屋で、この日私は何人かの人たちと話をさせていただくことになっていた。時間が遅くなると疲れるから、とのことで、Tさんが最初にこられることになっていた。
窓からは、福島の「まちなか」の通りが見下ろせる。ここは、35年間、障害者といっしょに暮らす街づくりに取り組んできた人たちが作った、みんなのためのスペースである。原発事故がなかったなら、福島市の街の中心地にあるここは、障害者といっしょに作る街の、ふつうの意味での拠点であっただろう。しかし、原発事故後の、放射能が持続して出続けている今日、ここは、それ以上の意味を持つ空間となるかもしれない。
放射能災害において、障害者の抱える困難が当初から取り上げられたことは今まで一度もないのではないだろうか。試みに、どなたか、この半年間の各種メディアが、障害者の立場から書かれた記事を何回掲載したか、検証してみていただけないだろうか。「科学的」あるいは「医学的」と称する言論において、「放射能による奇形や障害の生れる確率は……」という無神経な形で云々されることはあっても、障害者自身の立場に立って放射能災害と向かい合うという姿勢は、まだ人類の獲得していないものではないだろうか。しかも、おそらく、放射能の害は、まず真っ先に障害者を直撃すると思われるのである。
 私はウクライナで、チェルノブイリ事故によって種々の困難に直面した障害者の状況を把握したいと思って聞き合わせを何度か試みたが、短期滞在、しかも医師団派遣・検診実施のスケジュールの中では、それは不可能であった。「てのひらからこぼれ落ちていく真実」の中でも、放射能災害下の障害者の生き方の問題は、私たちに最大の注意を求めている。そのことを感知していながら、私はその問題の入り口にさえ到達し得なかったのであった。だから、3・11の直後、早急に福島でのカウンターパートを見つけようとしていたとき、最初に連絡のついた相手が「シャローム」で、その「シャローム」が障害者といっしょに暮らす街づくりを行ってきた人々だと知って、私は「天佑」だと思ったのであった。

 私は、「Tさんが歩いてこられた!」との声が聞こえた階段のほうへ急いだ。踊り場から下を見ると、杖をついたTさんが階段を一人で上ってくる。ここは障害者といっしょに暮らす場だからエレベーターをつけてほしい、と当局に要望したのに、予算が足りないとの理由で受け入れられなかったとのことである。電動式車椅子に乗るTさんの場合、ふだんは、この狭い、いくぶん急傾斜の階段を、みんなの力を借りて2階まで上がってくるのは大変な労力を要することであろうと思われた。そのTさんが独力で階段を上ってくる。このことは、最近のふだんのTさんを知っている人の目には奇跡のように見えているようだ。
 Tさんは、階段を上って、窓に面した部屋のテーブルに坐った。確かに足が不自由ではあるが、両手に杖をついて少しゆっくりめに歩いている人、という印象である。ヤール4からヤール5へと進行しようかという状態の人とは思えない。

 Tさんは、4月にネットに投稿した手記を、プリントアウトして持ってきてくれていた。すぐには読めないほどの長文である。
 4月18日の日付で、「(私は)今、この震災を契機に、体にも打撃がありました」と書いている。「放射能汚染のさなか、身体的な後遺症とどう取り組むのか、この、直面した体のアクシデントにどう対処していけばいいのか、知恵を拝借したく、ここに近況を載せるものです」。
以下、Tさんの手記を追ってみよう。
「3月11日、震災を受けて、部屋は物で散乱しました。その片付けとともに、断水しました。すぐさま水道管に残った水を汲もうと、体に鞭打って、飲料水を溜め置きました。それがきっかけで、腰痛が勃発したわけです。」
 いま一つ状況がわかりにくいのだが、地震で部屋に物が散乱したあと、片付けをしながら、断水のおそれがあるのに気づいて、断水になるまで体に鞭打って、ペットボトルやバケツなどにできる限りの飲料水を溜め置いた、ということであろう。地震の発生時から、震動が繰り返し襲ってくる間の恐怖、無理な体の動き、片付けに要する心身の痛みや疲労など、ここに詳細に書かれてはいないけれども、Tさんが経験した異常事態については、ある程度の想像力を働かせることはできるだろう。
「今度の腰痛は尋常ではありません。仰臥位も腹臥位もとれません。痛みの緊張が走り、薬効も短くなりました。おまけに就寝する時の体位は体幹や膝を屈曲した90度左側臥位です。中途覚醒の連続で、腰痛とパーキンソン病症状の悪化で、悪循環がはじまりました。」
 この事態は想像を絶するものがある。深夜、一人で、中途覚醒の連続。しかも、身動きができない中での、尋常ではない腰痛、「痛みの緊張」である。
「私は無動が強いので、何も出来なくなり、お地蔵さんのようになり、発語も聞き取れず、ヘルパーの手をやきました。強い鎮痛剤であるボルタレンやロキソニンを飲んでも、痛みはおさまりません。この大地震と原発事故は、建物やライフラインだけではなく、私の心身をも震撼させました。ヘルパーがいうには、みな障害者は体調を崩しているとのことです。このパソ打ちの作業をしている間にも、幾度となく余震が続き、落ち着きません。」
 この手記は、4月18日までの期間、尋常ではない痛みと身体の不自由さの中で、少しずつ書き継がれたものであろう。「みな障害者は体調を崩している」の背景に、重い数々の現実が横たわっている。

 ところで、引用文中に「無動」とあるのは、パーキンソン病の症状の一つである。
 パーキンソン病には「振戦(しんせん)」と呼ばれるふるえ、筋肉が硬くなってこわばる「筋固縮(きんこしゅく)」、動作が緩慢になり俊敏な動きができなくなる「寡動(かどう)・無動(むどう)」、体のバランスがとれずに転倒しやすくなる「姿勢反射障害」の四大症状があり、これらはパーキンソン病の診断において重要な指標になる。また、パーキンソン病の症状にはこのほかにも便秘に代表される自律神経症状、うつなどの精神症状があり、四大症状を含めたこれらの症状を「パーキンソニズム」と呼んでいる、とのことである。 
 通常は手足の力を抜いた状態で関節を曲げ伸ばししても、何の抵抗もないが、パーキンソン病の人の場合、手足を持って関節を伸ばそうとすると、筋肉の緊張が強く感じられ、カクンカクンという断続的な抵抗が感じられる。これが「筋固縮」である。
 筋固縮にともなって体の動きが鈍くなり、何かをしようとしてもすぐには動けず、動き出すまでに時間がかかり、動作全体もゆっくりになって、やがて動きそのものがなくなっていく。いくつかの動作を組み合わせて行うことも苦手になる。寝返りも打てなくなる。これが「寡動・無動」である。
 歩行開始時に最初の一歩が踏み出せなくなる「すくみ足」、表情が乏しくなってまばたきの回数が少なくなる「仮面様顔貌(かめんようがんぼう)」、低い声でボソボソとした話し方になる「単調言語」、意思を伝えるときに身ぶり手振りのなくなる「同時運動の喪失」、書く文字が小さくなる「小字症(しょうじしょう)」なども、パーキンソン病の「寡動・無動」の症状である。(以上、安保徹、水島丈雄ほか『パーキンソン病を治す本』より)
 Tさんの「お地蔵さんのようになり」も「発語も聞き取れず」も、いずれも「無動」の症状なのである。3・11以後4月18日までの間に、Tさんは「腰痛が勃発した」と同時に、パーキンソン病の「無動」などの諸症状も急激に進行した模様である。
(つづく)


梅ドみ 3/28~10/26(水)
 福島市のNPO法人シャロームと連携して、フクシマの被災者の方々にお届けしています。今後は、他の地域のフクシマ・ヒバクシャの方々からのご要望にもお応えできると思います。
 ≪ここに挙げるのは、購入分のみです。多くの方々が、自家製味噌、自家製梅干し(多量集まりました)、乾燥ドクダミ、無農薬玄米などを現物で提供してくださいました(現在も継続中)。特に乾燥ドクダミは、刈って、きれいに洗って、充分に陰干しをして、適度な大きさに切って、ビニール袋に小分けして詰めるのですが、ここまで結構、時間も労力もかかります。頭の下がる思いのすることもあります。また、購入分につきましては、府中味噌組合3社、ひろしま全農、マルシマ食品等、広島県内の製造・販売元の方々が、利益抜きの奉仕価格で特別に提供してくださっています。≫

残高 -498,240円  収入(梅ドみ募金)3,637,516円   支出(購入分)4,135,756円   
(内訳)味噌 4,500kg 1,278,200円; 梅干・醤油 972,875円; 十穀・黒米 32,991円; 無農薬(無化学肥料)玄米 90kg 38,700円; 無農薬(化学肥料半減)玄米 180kg 67,800円; ドクダミ(茶)、青のり、黒ごま、自然塩(天日塩)、ウーロン茶、ほうじ茶、かき葉、はぶ茶、ワカメ、昆布、ニンジンなど 1096,162円; 漢方入浴剤・貼薬材料117,117円;濾紙、ペットボトル27,275円;ダンボール、フリーザーバッグ、粘着テープ、はかり、やかん、容器、アルコール、ハサミ、ピンセット、コットン、レーザープリンターラベル、ペットボトルなど 125,586円;運送費(+郵送費) 379,050円(130回分)

(10/20・木)第127便(ダンボール2箱)
 内訳:(1)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶3、カットわかめ(小)2袋、赤穂の塩3袋、すりごま(黒)3袋  (2)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶3袋、カットわかめ(小)2袋、すりごま(黒)2袋、赤穂の塩3袋、青のり粉3袋
(10/22・土)第128便(ダンボール3箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)3袋     
(10/24・月)第129便(ダンボール3箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)2袋  (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)2袋  (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)3袋
(10/26・水)第130便(ダンボール1箱・クール便)
 内訳:ジュノーの会入浴剤(非売品)50本

  みなさん、ジュノーの会・「梅ドみ募金」に力を貸してください。「梅ドみ」とは「梅干し・ドクダミ茶・味噌」のことです。ヒロシマ、ナガサキを生き抜いた人びとの代表的な養生法を紹介しています。
  毎日1個の梅干し(昔ながらの、天日塩とシソだけの)、毎日1杯のドクダミ茶(ウーロン茶とのブレンドで2~3杯)、毎日1杯の(昆布ダシ、ワカメの)味噌汁――これが基本ラインの目安です。これを毎日続けること。(ドクダミ茶については、?飲みすぎに注意してください。おいしいと感じることが目安です。?妊娠中、授乳中の方は医師か薬剤師にご相談ください。)
  砂糖は摂らないようにしてください。黒ゴマ、自然塩(天日塩)、柿の葉、ニンジン、ハブソウ、ほうじ茶(緑茶は避けたほうがいいのです)などを摂るとよいのです。プレーン・ヨーグルトにも排毒の作用があります。あと、免疫力を高める強力な作用のあるのが「青のり」。青のりを天日塩でうすい塩味にして、ふりかけのようにして食してください。 
 ヒロシマ被爆時には、人びとは藁をもつかむようにして、ある人はドクダミを飲み、ある人はナスの味噌漬けを食べ、ある人はカワラヨモギを食べました。今はいろんな食品で排毒する知恵が見つかっていますので、一つ一つの食品については、過度に食する必要はありません。ドクダミ茶や昆布などは、摂りすぎに注意したほうがよいくらいです。
  たくさんのフクシマ放射能被災者の方々が「梅ドみ」「解毒」を求めておられます。国や県、行政の支援は望めません。待っているわけにはいかないのです。ただちに「解毒」を! 遅れれば遅れるだけ危険が増します。
  どうか、全国の非被災地のみなさんの力で、より多くのフクシマの人々に、「梅ドみ」に代表される「ヒロシマの知恵」を届けてあげてください。そして、ご自分でも、「梅ドみ」を入り口にして、「健康」を求める生活を始めてください。

 いま、私たちは何をすべきか。 
 大筋だけをズバリと言わせていただく。
 まず、初期の医療空白の時代には、呆然と待っていたりせずに、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリで効果があったと伝えられる療法を可能な限り試みることである。
 次に、政治方面の努力を急いでもらって、一日も早く「全科無料定期検診制度」と「全科無料治療制度」を確立すること、そしてそれを守り抜くことである。そのとき、初めて、現代医学は力を発揮するのである。
 (「ジュノーさんのように」第116号より)

NO.183 車椅子の人が立ち上がって歩いた~第2回福島報告・その1~

NO.183
車椅子の人が立ち上がって歩いた
~第2回福島報告・その1~


(ブログでの報告が滞ってしまいました。10月13日(金)の夕方こちらを発って、14日福島、15日山形県河北町、16日夕方福島、17日帰宅というスケジュールで福島を訪問しました。前回ほどではありませんが、やはり少し疲れました。他の作業とブログとどちらを優先したらいいかという問題は常にあります。というわけで、ときにブログが滞ることがあります。ご寛恕のほどお願いいたします。――甲斐記)
*  *  *  *  *  *
 
私は、2度目の福島訪問の報告を、10月14日に一番初めに話を聞かせてもらったある人のことから始めようと思う。
この人のことを私が初めて知ったのは、8月27日、シャロームで、「海よ開け!」の講演をした後のことだった。
講演と質疑応答のあと何人かの人たちからの個別の質問を受けていると、一人の小柄な、青年とも中年とも見受けられる男性が、もう一人の人と一緒に私の前に立っておられた。そして、心なしか、やや不明瞭な言語で、「おかげで歩けるようになりました。ありがとうございました」と言われたのだった。
「えっ? あ、はい」と私はまったくの不得要領のまま返事をした。何のことかわからない。何だろう?
会場からほとんどの人が立ち去ったあと、シャローム代表の大竹さんが私に話しかけてきた。
「いつも車椅子で、それも1時間も坐っていると痛くてたまらない人です。その人がさきほど甲斐さんが休んでおられた(私は到着時に体調不良のため暫時休ませてもらった)ソファーにうずくまって辛そうにしておられたので、私が貼剤を貼ってあげたのです。すると、私の目の前で、立ち上がって歩いて行かれたんですよ。びっくりしました。」
 どうやら、いつも車椅子で暮らしていて、立ち上がることはおろか、ただ坐っているだけでも痛みに襲われて苦しんでいる人が、「ジュノーの会漢方貼剤(非売品)」のおかげで立ち上がって、しかも歩いて行かれた、ということのようである。
「おそらくその人でしょう。私、今、お礼を言われました。あの人は、ふだんは歩けない方なのですか?」
「ええ、そうです。イエス様がなされた奇跡を見たような思いです。」

ジュノーの会の「漢方貼剤」は、放射能障害を予防する目的で使用していただいている。しかし、この人のように、予防のみでなく治癒のためにも使用されるケースも出てくる、ということであろうか。
ジュノーの会としては、あくまでも、放射能毒の解毒のための、晩発性障害を予防するための「ヒロシマの知恵」として「漢方貼剤」を配布しているのだが、結果として、この人に見られたような副産物的効果が得られることもある。それは、理屈抜きに、やはりとてもうれしいことだ。
後日、十河先生にこの出来事について話したところ、「そうした効果はあり得ないことではないけれど、やはり、本来の、放射能毒の排出という目的のために使ってほしい」とのことであった。
放射能毒の排出のために使った貼剤で、歩けなかった人が立って歩いた――大方の人にとって、あまりにも予想外のことが、目の前で起きてしまったのである。

後日、シャロームのスタッフの方を通じての何度かのやりとりの後、この人――Tさんと呼ぶことにしておこう――の状態が少しずつわかってきた。
Tさんは11年前から少しずつ身体が不自由になったようだ。昔から運動という運動は何でもやっていて、体力には自信があったとのことで、太極拳もやっていたそうである。
運動をしていたせいか、昔から腰痛はあった、とのことだ。その腰痛だけでなく、新たな症状も加わって身体が不自由になり始めたのが11年前なのである。Tさんはいくつかの病院で治療を受けたが症状は改善されず、診断も確定されないまま時間が過ぎた。
6年前になってやっとパーキンソン病であるとの診断を得、そのための治療が始まった。パーキンソン病のための薬物投与である。新薬を実験的に投与し、その薬に合う人には続け、合わない人には中止する、というようなこともあるようだ。Tさんは現在ヤール4とのことである。
一方、パーキンソン病の発病以前からあったTさんの腰痛は、変形性腰椎症との診断を得ている。第5腰椎の神経がダメージを受けており、また、腰椎の骨が棘状になっているとのことで、そうした複合的な進行状況のため、Tさんの重症度は今、ヤール5になりそうな状態である。
ヤール5と言えば、「立つことも不可能で、車椅子かほとんど寝たきりの生活。全面的介助を要する」状態であるが、Tさんは、3・11以前には1キロくらいは歩くことができていたとのことである。とすれば、Tさんは大震災で深甚な打撃をこうむったということだろうか。

3・11以前には1キロくらいは歩くことができていたTさんが、今ではほとんど寝たきりに近い状態であるというのであれば、この半年間でTさんの病状は急速に進行した、ということになる。とすれば、Tさんは大震災で深甚な打撃をこうむったのだろうか。それとも他にも原因があるのだろうか……。
以上のような情報を得たうえで、10月14日の午前、Tさんからの強い要望もあって、私はTさんと会った。
放射能は「弱い人」「弱い箇所」を集中的に襲うとも考えられている。Tさんの病状の進行は、福島原発事故の放射能と関係しているのだろうか。また、フクシマの身障者の方々は今どのような生活を送られているのだろうか。

なお、「ヤール」とはパーキンソン病の重症度の分類のことで、1度から5度までの5段階で進行程度を判断し、3度以上になると医療費の補助が受けられる。
1度は、症状が片方の手足のみの状態で、日常生活への影響はないか、あっても軽微
2度は、症状が両方の手足に見られるが、まだ軽度で、姿勢反射障害はない。日常生活に多少の不自由があるが、従来どおりに行うことは可能
3度は、典型的な前屈姿勢となり、姿勢反射障害や歩行障害が見られる。症状は軽度から中等度で、日常生活はある程度制限されるが自立はでき、職種によっては仕事も可能
4度は、症状が重篤になり、自力での歩行は不可能だが、支えてもらえば可能。日常生活でもかなりの介助を要し、労働は困難
5度は、立つことも不可能で、車椅子かほとんど寝たきりの生活。全面的介助を要する
(以上の分類に関する表現は、安保徹ほかの『パーキンソン病を治す本』に依った。)

 この分類によると、Tさんは現在、「自力での歩行は不可能」から「立つことも不可能」へと進行中である。この人が「漢方貼剤」のおかげで、目の前で、すっと立って歩いた。そして私も、確かに、歩いているTさんからお礼を言われたのであった。――これは一体どういうことだろうか。
(つづく)


梅ドみ 3/28~10/19(水)
 福島市のNPO法人シャロームと連携して、フクシマの被災者の方々にお届けしています。今後は、他の地域のフクシマ・ヒバクシャの方々からのご要望にもお応えできると思います。
 ≪ここに挙げるのは、購入分のみです。多くの方々が、自家製味噌、自家製梅干し(多量集まりました)、乾燥ドクダミ、無農薬玄米などを現物で提供してくださいました(現在も継続中)。特に乾燥ドクダミは、刈って、きれいに洗って、充分に陰干しをして、適度な大きさに切って、ビニール袋に小分けして詰めるのですが、ここまで結構、時間も労力もかかります。頭の下がる思いのすることもあります。また、購入分につきましては、府中味噌組合3社、ひろしま全農、マルシマ食品等、広島県内の製造・販売元の方々が、利益抜きの奉仕価格で特別に提供してくださっています。≫

残高 -457,966円  収入(梅ドみ募金)3,592,016円   支出(購入分)4,049,982円   
(内訳)味噌 4,320kg 1,229,600円; 梅干・醤油 972,875円; 十穀・黒米 32,991円; 無農薬(無化学肥料)玄米 90kg 38,700円; 無農薬(化学肥料半減)玄米 180kg 67,800円; ドクダミ(茶)、青のり、黒ごま、自然塩(天日塩)、ウーロン茶、ほうじ茶、かき葉、はぶ茶、ワカメ、昆布、ニンジンなど 1069,548円; 漢方入浴剤・貼薬材料117,117円;濾紙、ペットボトル27,275円;ダンボール、フリーザーバッグ、粘着テープ、はかり、やかん、容器、アルコール、ハサミ、ピンセット、コットン、レーザープリンターラベル、ペットボトルなど 124,346円;運送費(+郵送費) 369,730円(126回分)

(10/06・木)第122便(ダンボール2箱)
 内訳:(1)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、徳用ドクダミ茶1袋、赤穂の塩5袋、すりごま(黒)3袋、青のり粉2袋、タオル1本  (2)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、自家製乾燥ドクダミ茶(内田千寿子さん)7袋、カットわかめ(小)4袋、すりごま(黒)2袋、赤穂の塩3袋
(10/07・金)第123便(ダンボール2箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、徳用ドクダミ茶2袋、カットわかめ(小)2袋、すりごま(黒)3袋、青のり粉3袋  (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(小)4袋、すりごま(黒)2袋、青のり粉4袋    
(10/12・水)第124便(ダンボール3箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (2)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶3袋、赤穂の塩3袋、カットわかめ(小)3袋、すりごま(黒)2袋、青のり粉1袋  (3)マルシマ梅干2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶3袋、赤穂の塩3袋、カットわかめ(大)1袋、(小)3袋、すりごま(黒)3袋
(10/14・金)第125便(ダンボール4箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋 (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)3袋  (4)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)1袋、赤穂の塩1袋、青のり粉2袋
(10/16・日)第126便(ダンボール2箱)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)4袋
(2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、徳用ドクダミ茶2袋、カットわかめ(大)1袋、すりごま(黒)3袋

内田千寿子さん、西澤志保さん、倉田法子さん、地球愛祭り2011inふじのくにさん、真田秀美さん、高田恵子さん、上田麻衣さん、右京恵美さん、上田一博さん、市場淳子さん、kuu-kuuさんとみなさん、清水康正さん、波多野よしみさん、福島市まちなか夢工房・梅ドみ募金さん、三原令子さん、ありがとうございました。

  みなさん、ジュノーの会・「梅ドみ募金」に力を貸してください。「梅ドみ」とは「梅干し・ドクダミ茶・味噌」のことです。ヒロシマ、ナガサキを生き抜いた人びとの代表的な養生法を紹介しています。
  毎日1個の梅干し(昔ながらの、天日塩とシソだけの)、毎日1杯のドクダミ茶(ウーロン茶とのブレンドで2~3杯)、毎日1杯の(昆布ダシ、ワカメの)味噌汁――これが基本ラインの目安です。これを毎日続けること。(ドクダミ茶については、?飲みすぎに注意してください。おいしいと感じることが目安です。?妊娠中、授乳中の方は医師か薬剤師にご相談ください。)
  砂糖は摂らないようにしてください。黒ゴマ、自然塩(天日塩)、柿の葉、ニンジン、ハブソウ、ほうじ茶(緑茶は避けたほうがいいのです)などを摂るとよいのです。プレーン・ヨーグルトにも排毒の作用があります。あと、免疫力を高める強力な作用のあるのが「青のり」。青のりを天日塩でうすい塩味にして、ふりかけのようにして食してください。 
 ヒロシマ被爆時には、人びとは藁をもつかむようにして、ある人はドクダミを飲み、ある人はナスの味噌漬けを食べ、ある人はカワラヨモギを食べました。今はいろんな食品で排毒する知恵が見つかっていますので、一つ一つの食品については、過度に食する必要はありません。ドクダミ茶や昆布などは、摂りすぎに注意したほうがよいくらいです。
  たくさんのフクシマ放射能被災者の方々が「梅ドみ」「解毒」を求めておられます。国や県、行政の支援は望めません。待っているわけにはいかないのです。ただちに「解毒」を! 遅れれば遅れるだけ危険が増します。
  どうか、全国の非被災地のみなさんの力で、より多くのフクシマの人々に、「梅ドみ」に代表される「ヒロシマの知恵」を届けてあげてください。そして、ご自分でも、「梅ドみ」を入り口にして、「健康」を求める生活を始めてください。

 いま、私たちは何をすべきか。 
 大筋だけをズバリと言わせていただく。
 まず、初期の医療空白の時代には、呆然と待っていたりせずに、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリで効果があったと伝えられる療法を可能な限り試みることである。
 次に、政治方面の努力を急いでもらって、一日も早く「全科無料定期検診制度」と「全科無料治療制度」を確立すること、そしてそれを守り抜くことである。そのとき、初めて、現代医学は力を発揮するのである。
 (「ジュノーさんのように」第116号より)

号外3 山代巴ほか編『原爆に生きて』より――「山代巴文学を語る集い(2011.11.6)」への誘い――

号外3 山代巴ほか編『原爆に生きて』より――「山代巴文学を語る集い(2011.11.6)」への誘い――

 私(甲斐等)は、10/14~10/16の2度目の福島訪問から帰宅後、放射能の「晩発性障害」に立ち向かうために最終的な気持ちの整理を行う必要を感じていた。そのためか、我にもあらず、ふと、上下町の「白壁の街並み」を歩いてみたいと思い立った。中国山地の分水嶺にある上下町はかつて天領として独自の気風を持っていた地域であるが、今は、市町村合併の結果、同じ府中市の一部となっている。
8月23日(日)、昼過ぎには帰宅して机にかじりつくつもりで、朝8時の下りの電車に乗り込んで、山ふところの方角に向かった。府中駅の隣の下川辺駅を出ると、周囲の風景は一変する。下川辺駅まではいわば温和でなだらかな山陽路であるが、そこから奥に向かうと、もう中国山地の風景である。電車は木々の間をあえぎながら登っていく。
 残念ながら、私はまったく自由な心で休日の電車に揺られているのではなかった。
 風の噂では、上下町には原発を憂い、福島の人びとを気遣っている人びとが少なからずいると聞く。隣の上下町にそうした仲間がいてくれるのであれば、たいへん心強いではないか。上下町は観光地としての街づくりを進めているから、感じのいい喫茶店もいくつかあるだろう。そうした店のいくつかに入って、会報「ジュノーさんのように」を示してみれば、何らかのリアクションが得られるはずだ。
 それに、山代さんは一時期上下町に住んで、上下町周辺のことに力を注いでいた。いや、むしろ、山代さんが中国山地のことに入り込んでいく出発点は上下町にあったはずである。なのに、なぜかそのあたりのことはあまり表面に出てこない。これはどういうわけだろうか。この空白部分は、案外本質的に重要な問題を含んでいるのではないか。上下町の古い街並みに何かちょっとしたヒントでも見つからないだろうか。
 そんな思いもあって、私は朝9時には既に、まだ人通りの全くない「白壁の街並み」に立ったのである。
 成果はどうだったか。
 第1番目のことに関しては、確かに上下町には福島の人びとを助ける仲間がいるようであった。出会った人びとの感触から、私は、そのような気配を感じることができた。「文化的には府中より上下のほうが高い」と自負する人びとの中から、ほんとうに「いのち」を守ろうとする動きが表面化するなら、それはとても大きな意味がある。期待したい。
 第2番目のことに関しては、ふとした偶然から、「横山文江」さんにお会いすることができた。1953年出版の『原爆に生きて』の執筆者の一人である。このような偶然が用意されていたというのは、これは必然であろう。フクシマが私を上下町に赴かせ、「横山文江」との邂逅を用意したのである。
 私は今回の「横山文江」さんとの出会いから、山代さんの上下町での活動について大雑把な輪郭めいたものを得たと思っている。しかし、それよりも私を驚かせたことは、『原爆に生きて』から58年後の今日の「横山文江」さんの話の内容が、58年前の『原爆に生きて』に収録された手記の内容と、ほぼ全く同一であったことだ。同書に「(吉野)村には医者がいなかったので、お父さんは気の毒だったが、暑い日中を車に乗せて、上下町の医者に通った」と記されている「上下町の医者」が固有名詞で出てくることや、結婚後のことなど、「横山文江」の手記に出てこないことももちろん話されたが、途切れることなく話されたことの90%以上が『原爆に生きて』の手記と同一のものであったと言ってよい。『原爆に生きて』に書いた事実は、「横山文江」さんにとって、終生、忘れようとしても忘れられない真実だったのであろう。
 『原爆に生きて』は、このような真実を書き刻んだ「いのちの生活記録」だったのである。
 以下に「横山文江」の手記の冒頭部分を紹介する。今日もしくは3~4年後のフクシマを重ねて熟読してもらいたい。(『原爆に生きて』は、日本図書センター刊の『日本の原爆記録』第3巻に収録されている。最寄りの図書館で読んでいただければ有難い。)
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(『原爆に生きて』所収、横山文江「甲神部隊の父」より) 
 七日朝登校の途中、上下(じょうげ)町の警察前に一台の自動車が止まって、黒山のような人だかりなので、どうしたのかと寄って見ると、顔は土色に腫れあがり、眼の玉は飛び出し、唇やまぶたはめくれて赤くなり、ひどく臭い人が立っている。私は冷や水を浴びたようにぞっとした。人の話を聞くと昨日広島でやられた人だといっていた。私は急いで登校し、先生につげて、同じように父が広島に出ている人達と上下駅へ行き、一日四、五回のわずかな回数に下車する人々に父達の消息を尋ねたが、ボロボロの服に黒い顔で、足を引きずるようにおりて来る被害者達は、自分の事だけでやっとらしく、他人の事など分る筈がなかった。
 父達には八月二日に召集が来て、広島市の警備及び家屋疎開整理作業とかで、特設警備隊として一週間の予定で出ることになり、各々がスコップ、ツルハシ、鋸、玄翁、木槌、なた、等の道具をかつぎ、米や焼塩等の食糧を負うて、四日の午後上下町警察の裏にある武徳殿へ集まったのだった。それは甲奴、神石両郡の四十をすぎた男と、十八歳未満の青年三百名ばかりで編成され、甲神部隊と呼ばれて、見送りもさけ、五日早朝上下駅をたち、翌六日朝、甲奴の人々は起床して支度中に被爆したと言う話だ。
 私達は毎日父の安否を尋ねる不安な日を続けた。十日、庄原町へ帰っている人に父らしい人がいると、知らせてくれる人があって、母は取りあえず下着と着物一枚持って行った。私達はどうか父でありますようにと祈っていたが、父ではなく同姓の人であったと、母は夕方ションボリ帰って来て、
「もうお父さんは助かっては居られないかも知れないが、皆気を落ちつけて頑張って行かにゃあいけん」
と言われた、でも出発のきわまで、
「私は四十六になるまで、病気で寝たことがない」
と、丈夫なことが自慢だった父だけに、死んでいるとは思えなかった。
 十二日夕刻、不意に上下駅へ元気で帰ったから迎えに来いと、人が伝えて来てくれたので、家族の者は夢中になって、部落の人と一緒に荷車を引いて行った。私と妹が留守番をさせられた。車の音や話声がする度、外に出て、待ちあぐんでいると、二時間位して、父は竹の杖を持って車からおりられた。私は安心と嬉しさに、お父さんと言って泣いてしまった。お父さんは足の甲へ一銭銅貨位の火傷をして、頭にちょっとかすり傷をしただけで、他の人のようにひどくなかったから、一緒に出た甲神部隊の人々の世話をしてあげたから、人より少し遅くなったのだと大変元気に話して、そして自分が知っている限りの人々に、自分の帰宅を知らせるハガキを書かれた位気も確かであった。
 村には医者がいなかったので、お父さんは気の毒だったが、暑い日中を車に乗せて、上下町の医者に通った。医者は手当がよくわからず、普通の手当しかしてくれなかったが、医者を頼って行く人は多かった。医者の待合室では、毎日のように甲神部隊の人々の死なれたことを聞かされた。武徳殿には上下駅へ下車した被害者を五六十人も収容していたが、そこで死ぬる人もあったし、そこから車に乗せて家まで届けられて、間なしに死んでいった人もいるし、今日は武徳殿にいる人が二人死んだ、領家(りょうけ)の方にも死んだ。上川(かみかわ)にも矢野(やの)にも清嶽(きよたけ)にも、死んだ死んだと言う話ばかりで、心細かった。けれどお父さんは元気だし、大した怪我はないし、力強く思っていた。十八日に兄が復員して来た。父を見て驚いたけれど、まあまあ一家揃って一安心だと、父は嬉しそうであった。
 斑点は初めは腿や腕の方へ出だした。着物を着かえさせるのに母が気づいて、おかしいから、医者へ行って今日は聞いて見い言うから、聞いて見たら、
「蚤か蚊が食うたんだろう」
と医者は言われた。そうかなあと思ったけれど、うちには何ぼう蚤や蚊がいると言っても、そんなに沢山いるか知らんと、不思議に思った。斑点は初めは赤く、次第に紫になって、数が毎日ふえる。家の者は皆変だと思うけれども、医者は元気だからと言って注射もして下さらなかった。他家には髪が抜けるというが、うちには髪も抜けないし、まだ斑点の出た話は聞かぬので、絶対になおる気でいた。ところが二十二日頃から熱が出だして、二十三日には四十度を越えていた。二十四日、医者の帰りに暑さがひどかったので、車へ寝て帰った。
 夕方食事をしながら母が、どうも今夜は眠いから、誰か代ってお父さんを見てくれと言われるから、私はいそいで食事をすませて、母と代ったが、ものの三十分もしないうちに、何か分からない事を口の中で言い出され、終りには何かわからなくなってしまった。兄は熱の為だろうから、そっとしておいた方が良いと言うので、眠いのを我慢して蚊を追っていると、急に様子が変った、脈が変になった。お母さんを呼んだけれど、皆な来た時はもう駄目だった。私は余りに急なので、答えぬ父を必死に呼んで泣いた、部落の人が来て、元気を出すのよ、悪かったのうと泣かれると、泣けて泣けてしかたがなかった。
 上下町から四里位奥の神石郡高蓋(たかふた)村キツワの方で、父等と共に被爆した人が、くやみを言いに来られたから、うちのは斑点が出来て、こう言うふうにして死んだと、様子を話してあげたら、
「己はまんだ斑点やなんど出ちゃあおらん」
と言って、兵隊シャツをまくられたら、もうぽっぽっ赤い斑点が出ているから、びっくりして、母も私もつい
「こかあなのが、だんだん紫になったんじゃ」
と言った。キツワの人はびっくりして、
「ほんならまあ見てくれ」
と言って裸になられたら、背中の方にももう斑点が出ていた。この人は一人おやじ(家中ただ一人の男)で、もしもの事があったら、女ばかり残るのだから、言ってあげねばよかったと後悔して、
「まんだこりゃあ赤いけえ、早ういんで寝なさい、三里も四里も自転車を踏んでんない方がええよ」
と言ったら、びっくりして、自転車を押して帰られたが、半月もせぬうちに死なれたと言うことを聞いた。
 吉野村の小学校長、山田八郎先生は、あの日ちょうど出張中の電車の中で被爆され、
「自分は伏せたけえ、こうように無傷だ」
と言って、半分焼けた鞄を持って、上下の町中を歩いて自慢していられたが、髪の毛が抜け出して、十月の初め頃死なれた。矢野村の人は血を吐いて死なれたと言うことを聞いた。翌年の二月頃までは、しじゅうどこかで、原爆病で死なれた話を聞いていた。その頃まで甲神部隊の八、九割までが死んでしまわれた。
 母は自分でまだしばらく百姓は出来るからと、兄は元の所へ勤めさせ、私達は学校へ通わせ、あのインフレの苦しい時でも、兄が送る少しの給金を、今日は学校へ幾らいると言えば、必ず出して下さった。こんな母に早く安心させてあげようと思った。しかし世の中は情けもなく今迄とは打って変って冷たく、父一人居なくなればこんなにも馬鹿にされるかと思うことが、度々となった。(以下、略)

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 上記の引用箇所中に、「村には医者がいなかったので、お父さんは気の毒だったが、暑い日中を車に乗せて、上下町の医者に通った」とある。
 吉野から上下までは5キロある。「車」とは荷車のことである。
「横山文江」さんは、「暑い日中」毎日5キロ、お父さんを荷車に乗せて「上下町の医者」に通ったのだ。
 それから66年後、やはり、「あの暑い中、連れていったのが悪かったかねぇ」「気の毒じゃった」という言葉が出てきた。
 中国山地の山間で、このような日常が、あちらでもこちらでも過ぎていった。
 ここにもまた一つの「荷車の歌」がある。
「世の中は情けもなく今迄とは打って変って冷たく、父一人居なくなればこんなにも馬鹿にされるかと思うことが、度々となった」――これは、山代巴文学の中心課題に関係する点であろう。この問題は、はたしてフクシマではどのような現れ方をするだろうか。固唾を呑んで見守っている人も多いはずだ。


山代巴文学を語る集い (2011)
11月6日(日)午後1時~受付/午後1時半開始
会場:尾道市立中央図書館

山代巴さん再評価の機運が高まっています。そして、フクシマの事態に直面した今、山代さんとの新たな出会いが訪れようとしています。 そこで、山代さんの(これまでの・これからの)読者が集まって山代文学から呼吸する――そんな機会をもつことができれば、と考えました。山代さんの命日の前日に、牧原憲夫氏(前東京経済大学教員)を備後の地に迎えて、はじめます。    
     発話者(の一部):
甲斐 等 「フクシマに生きて――まず赤裸な人間に立ちかえることから」
牧原憲夫 「山代巴のめざしたこと」
みんな…… 手を挙げよう、どんな小さな手でもいい

  牧原憲夫さんは、東京で山代さんの一番身近なところにいた歴史研究者で、
  径書房・第二期「山代巴文庫」全8巻(既刊分)の巻末解説を書いた人です。
  主な著書に、『客分と国民のあいだ:近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)、『民権と憲法』(岩波新書:シリーズ日本近現代史第2巻)、『文明国をめざして』(小学館:全集日本の歴史第13巻)、編著に『山代巴獄中手記書簡集 模索の軌跡』(平凡社)などがあります。

主催:中井正一研究会 連絡先:電話 0847-45-0789(甲斐)  入場無料・カンパ歓迎

号外 山代巴『荷車の歌』より――「山代巴文学を語る集い(2011)」への誘い――

号外2 山代巴『荷車の歌』より――「山代巴文学を語る集い(2011)」への誘い――

『荷車の歌』には原爆被害者の日常が、さりげなく、日々の暮らしの中で描かれている。主人公セキさんの夫である茂市さんは入市被爆者(8月6日のあとで家族・縁者の安否を気遣って広島市に入って被爆地を探し歩いた人)なのである。今のフクシマ・ヒバクシャの人びとの多くは、入市被爆者と同じような状態であろうと懸念されているが、ごくふつうの庶民に襲いかかる放射能の恐怖を、山代巴は現代の民話と言われた『荷車の歌』に淡々と書き込んでいる。誰をも、あたりまえのようにして襲うのが原爆、放射能なのであり、それは日常ありふれた現実なのである。
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(『荷車の歌』より)

(前略。以下は昭和二十二[一九四七]年の話。)
虎雄の残した子は、その年、一番上の房枝が十三歳で、
その下に男の子が四人いた。セキさんはこの五人の孫を育てるのは、七人のわが子を育てた時よ
り、もっと苦労だろうと思われて、
「孫らがひとせい伸びるまでは、わしらは楽は出来んで、お祖父さん」
「そうよ、そうよ、楽をしようと思わんことよ、わしはまんだ、よその田地を鋤きに来てくれ言
われりゃあ、鋤きにも行く、若い者にまけんだけ草も刈る、負い荷もする」
と、実際に茂市さんは、春になると自分の家の田植仕度だけではなく、よそへ雇われて行って、
よその田植仕度までした。夏になると夜の明けぬ間から山草を刈りに出て、人が刈りに出るまで
には一荷(いっか)ぐらい刈って置くほど精だした。(略)

 そして昭和二十五年五月、牛を追うて田を鋤いているある日、茂市さんは、
「気候のせいだろうか、今日は体がだるい、それに血が下る」
と、昼のごはんもほとんど食べなかった。けれども近所でも総出で忙しく働いているのを見ると、
休むのが気がひけたのだろう、昼からも無理をして田へ出たが、牛が二十間ばかり鋤くと、めま
いがすると言って畦道へ出て腰をおろした。
 その次の朝セキさんが、
「お祖父さん今朝はひどう顔色が悪いで、どうかあるんじゃあないの」
と聞くと、茂市さんは大儀そうに、
「どうかあるいうても、わしが休んじゃあ、それだけ田植仕度がおくれて、近所の世話にならに
ゃあならん」
と言って、牛を追うてぽつりぽつりと歩いて出た。その日は真夏のように暑かった。茂市さんは
汗を流して、
「やれ暑や、やれ暑や」
と、重そうに牛に鋤をかけ、歩こうとしたが足がもつれた。
「やれ危ない」
と、セキさんがかけよると、
「ハー」
と、茂市さんは鋤を離して水田の中を歩こうとしたが、セキさんの肩にもたれても、五六歩ある
いて休み、畦まで出るともう立つことができず、這って家へ帰った。セキさんはさっそく孫の房
枝に言いつけて医者を呼びに行かせた。医者は診察して、
「脾臓が腫れとる」
と言われたが、病名は言われなかった。夜になると茂市さんは血を吐いた。体の自由がなくなり
血の気も抜けて死人のようになった。翌日は三次からも医者を迎えて立ち会いで診察してもらっ
た。でも脾臓と肝臓が腫れているということだけで、病名もわからず、応急の処置として、リン
ゲル注射二本と、百瓦(グラム)の輸血をしてもらったが、脾臓は臍の辺まで腫れ下って、なおも大きくな
るばかり、熱は四十度に上って、血を吐き鼻血を出し、この病状を白血病と同じだと気づく人も
なければ、もしやこれは、ツル代を探して原爆の落ちたあとの広島を、三日も歩いたからではな
いだろうかと、疑ってみる人もいない中で、死んでいった。
(径書房刊、山代巴『荷車の歌』177頁~180頁)


4月18日のジュノーの会ブログNO.75は、「実際に何か異常を認めたときには、すでに遅いのです。」というチェルノブイリ被災者市民団体「ゼムリャキ」代表タマーラ・クラシツカヤさんの言葉を紹介している。これは、広島原爆生存者とチェルノブイリ被災者に共通する日常を的確に表現したものであろう。ここに再録しておきたい。

ジュノーの会ブログNO.75
「実際に何か異常を認めたときには、すでに遅いのです。」  (タマーラ・クラシツカヤ)


チェルノブイリの大惨事から20年と半年経った頃です。2006年9月下旬に、私(甲斐)はキエフのゼムリャキ事務所でタマーラさんと少し長い時間話し合ったことがあります。そのときの様子が「中井正一研究会会報準備号」第74号(2006.12.22発行)に載っていますので、一部を紹介してみたいと思います。

 私は尋ねる。
「被災者の人に今後一番心配される病気は、やっぱり、がんだと思うんです。しかし、がんは、予防が困難な病気です。ですから、広島では、早く発見して、早く治療するという体制を作り上げてきたわけです。こちらでは、今、各種検診は、どのような形で行われているのですか?」
 すると、タマーラさんは答える。
「患者自身が、自覚症状がない時は、気にしていません。そして、実際に何か異常を認めたときには、すでに遅いのです。」
 私は、さらに言う。
「年に一回とか、定期的に検診を行う必要があるんです。これに政府がある程度の金額は援助する、そういう体制を早くとらないと将来的に困難なことがあるのではないかと心配します。」
 すると――
「ヒロシマではそういうシステムができていることと思いますが、こちらでは、私たちの健康状態が悪化しているということに配慮していないどころか、逆に、かつて作られた被災者保護の法律なども、だんだん骨抜きになっています。」
「被災者のがんの罹病率が年々増えていますが、私たちも、そのヒストグラムの対象になっている人が増えています。胃がん、子宮がんなど、いろいろながんが増えています。被災者の二人に一人は乳がんにかかっているとも言われています。これは少し言い過ぎかもしれませんが……。」
(以上、「中井正一研究会会報準備号」第74号より)

 今、日本では、「唯一の被爆国」であるにもかかわらず、原発事故に起因して起こる「健康被害」「晩発性障害」に対して、驚くべき無知がまかり通っています。ほんとうにほんとうに危ないです。ヒバクに対しては、できる限りヒバクを避けること、いったんヒバクしたら、あらゆる危険性を考慮して「早期発見、早期治療」のシステムを整備すべく邁進する以外に、制度的な方策はありません。
 敢えて言います。「10年、20年は帰れない」という発言は、残念ながら、正しいのです。「いつ帰れるのか」と問うのではなく、「すぐに全員移住させよ。移住のための適地を用意せよ」と要求しなければならないのです。要求するだけでなく、高い線量が報告された地域からは即刻退去しなければならないのです。放射能は目に見えません。見かけの平静さに欺かれてはいけません。まず退去し、10年、20年後に確実に起こる「晩発性障害」に備えて、今すぐ解毒に努めてください。そして、「早期発見、早期治療」を可能にすべく、「全科無料定期検診」「全科無料治療」のための法整備の方向に努力を集中させてください。
 とくに若い世代ほど急ぎます。妊婦さん、乳幼児はさらに急ぎます。高い線量の地域に残れば残るほど、それだけ危険は増大するのです。退去、移住を急いでください。このまま高い線量の放射線を浴び続けた場合には、「梅ドみ」も、他のヒロシマの知恵も、無力だと思います。まず放射能の危険性のない地域に移動して、それから解毒に努めてください。
(以上、ジュノーの会ブログNO.75)

 
山代巴文学を語る集い (2011)
11月6日(日)午後1時~受付/午後1時半開始
会場:尾道市立中央図書館

山代巴さん再評価の機運が高まっています。そして、フクシマの事態に直面した今、山代さんとの新たな出会いが訪れようとしています。 そこで、山代さんの(これまでの・これからの)読者が集まって山代文学から呼吸する――そんな機会をもつことができれば、と考えました。山代さんの命日の前日に、牧原憲夫氏(前東京経済大学教員)を備後の地に迎えて、はじめます。    
     発話者(の一部):
甲斐 等 「フクシマに生きて――まず赤裸な人間に立ちかえることから」
牧原憲夫 「山代巴のめざしたこと」
みんな…… 手を挙げよう、どんな小さな手でもいい

  牧原憲夫さんは、東京で山代さんの一番身近なところにいた歴史研究者で、
  径書房・第二期「山代巴文庫」全8巻(既刊分)の巻末解説を書いた人です。
  主な著書に、『客分と国民のあいだ:近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)、『民権と憲法』(岩波新書:シリーズ日本近現代史第2巻)、『文明国をめざして』(小学館:全集日本の歴史第13巻)、編著に『山代巴獄中手記書簡集 模索の軌跡』(平凡社)などがあります。

主催:中井正一研究会 連絡先:電話 0847-45-0789(甲斐)  入場無料・カンパ歓迎

号外 山代巴文学を語る集い (2011)

山代巴文学を語る集い (2011)
11月6日(日)午後1時~受付/午後1時半開始
会場:尾道市立中央図書館

山代巴さん再評価の機運が高まっています。そして、フクシマの事態に直面した今、山代さんとの新たな出会いが訪れようとしています。 そこで、山代さんの(これまでの・これからの)読者が集まって山代文学から呼吸する――そんな機会をもつことができれば、と考えました。山代さんの命日の前日に、牧原憲夫氏(前東京経済大学教員)を備後の地に迎えて、はじめます。    
     発話者(の一部):
甲斐 等 「フクシマに生きて――まず赤裸な人間に立ちかえることから」
牧原憲夫 「山代巴のめざしたこと」
みんな…… 手を挙げよう、どんな小さな手でもいい

  牧原憲夫さんは、東京で山代さんの一番身近なところにいた歴史研究者で、
  径書房・第二期「山代巴文庫」全8巻(既刊分)の巻末解説を書いた人です。
  主な著書に、『客分と国民のあいだ:近代民衆の政治意識』(吉川弘文館)、『民権と憲法』(岩波新書:シリーズ日本近現代史第2巻)、『文明国をめざして』(小学館:全集日本の歴史第13巻)、編著に『山代巴獄中手記書簡集 模索の軌跡』(平凡社)などがあります。

主催:中井正一研究会 連絡先:電話 0847-45-0789(甲斐)  入場無料・カンパ歓迎

NO.182 「事故処理作業」を一般住民に押し付けてはいけない!

NO.182
「事故処理作業」を一般住民に押し付けてはいけない!

 チェルノブイリ原発の大惨事のあと、旧ソ連全土から60万人とも80万人とも言われる人びとが招集されて「事故処理作業」に従事した。今ではもうほとんどの人びとが生存していないと言われる「事故処理作業者」、リクビダートルである。
 チェルノブイリ事故で最も大きな被害・障害を受けたのは「事故処理作業者」であった、と言われる。その多くは次々に病魔に侵され、5年、10年、15年……後には、その罹患した数々の病気が重篤化する。しかし、国家経済が立ち直らない状況下では、彼らは、初歩的な医療さえ受けることができず、福祉の助けを得ることもなく、不自由と貧窮の中で酷い死を迎えなければならなかった。とりわけ、ソ連崩壊後の各共和国に散り散りになっていった「事故処理作業者」の場合、耐え忍ばなければならなかった運命は極めて過酷なものであったと言えよう。こうした「事故処理作業者」が直面した健康被害の全体像は、今なお闇の中にある。 

 いま、日本で「除染作業」と呼ばれているものは、少し相違点はあるにせよ、従来「事故処理作業」と呼ばれてきたものとほぼ同一のものであろう。
 「事故処理作業」を「除染作業」と言い換えるゴマカシはもうやめよう。
 「緊急時避難準備区域」が解除になった広野町で、「孫が帰って来れるように除染しておきたい」と、家の軒に溜まった堆積物を手で除去している人の姿をテレビが映していた。手袋はつけているが、マスクはしていない。軒の堆積物は鼻先にある。
 内部被曝は、口から入ってくる食べ物と、鼻から入ってくる空気に含まれている放射性物質によって引き起こされる。空気に含まれている放射能を体内に入れまいとすれば、放射能のない場所に避難するか、鼻から入るのを防ぐために、内側を少し水分で湿らせたマスクをはめておくか、いずれかしかあるまい。だから、「その場」にどうしてもいなければならないのであれば、せめてマスクははめておくべきだし、そのような指導がなされるべきである。
 私が見た限りでは、同じ映像に映っていた人たちの中で、マスクをはめていた人は一人もいなかった。
 
 一体どうしたんだ、この国は? という驚きの連続である。
 「緊急時避難準備区域」――これは命名通り、原発の状況によって「緊急時」が訪れた時は避難するよう準備しておくべき区域のことであろう。そして、原発の状況が一定程度落ち着いたと政府が判断した時には「緊急時」が去ったと判断されることになり、したがって「緊急時避難準備」も必要がなくなるわけである。
 つまり、この場合、住民にとって安全であるか否かは考慮される必要がない。もともと、住民の健康にとって避難が必要な区域であるか否かといった観点は考慮されておらず、原発事故の状況にとって「緊急時」であるか否かだけが問題とされているからである。
 数百万人、場合によっては一千万人を超えるかもしれない住民のいのちと健康に対する配慮が、最初から欠けている。

 チェルノブイリ事故では60万人とも80万人とも言われる「事故処理作業者」が動員された。いま日本では、これほどの放射能汚染を引き起こしていながら、「事故処理作業者」は動員されていない。
 はたして、「事故処理作業者」がいなくて「事故処理」はできるのか。
 今の日本では「事故処理作業者」は要らない、ということのようである。なぜなら、日本で行われているのは「事故処理作業」ではなく「除染作業」であり、しかも、「除染作業」を行うのは一般住民なのであるから。――これが今の日本の常識なのであろうか。
 世界が、「唯一の被爆国」日本の、ありのままの姿を見ている。

 「事故処理作業」であれ「除染作業」であれ、放射能を取り扱う作業は、十全の防御方法に習熟した人びとによって、受ける線量に細心の注意を払いながら行われなければならない。
 当然のことであるが、一般住民は「事故処理作業者」の仕事の現場に居住していてはいけないのである。

梅ドみ 3/28~10/03(月)
 福島市のNPO法人シャロームと連携して、フクシマの被災者の方々にお届けしています。今後は、他の地域のフクシマ・ヒバクシャの方々からのご要望にもお応えできると思います。
 ≪ここに挙げるのは、購入分のみです。多くの方々が、自家製味噌、自家製梅干し(多量集まりました)、乾燥ドクダミ、無農薬玄米などを現物で提供してくださいました(現在も継続中)。特に乾燥ドクダミは、刈って、きれいに洗って、充分に陰干しをして、適度な大きさに切って、ビニール袋に小分けして詰めるのですが、ここまで結構、時間も労力もかかります。頭の下がる思いのすることもあります。また、購入分につきましては、府中味噌組合3社、ひろしま全農、マルシマ食品等、広島県内の製造・販売元の方々が、利益抜きの奉仕価格で特別に提供してくださっています。≫

残高 -560,558円  収入(梅ドみ募金)3,319,494円   支出(購入分)3,880,052円   
(内訳)味噌 4,260kg 1,213,400円; 梅干・醤油 896,219円; 十穀・黒米 32,991円; 無農薬(無化学肥料)玄米 90kg 38,700円; 無農薬(化学肥料半減)玄米 180kg 67,800円; ドクダミ(茶)、青のり、黒ごま、自然塩(天日塩)、ウーロン茶、ほうじ茶、かき葉、はぶ茶、ワカメ、昆布、ニンジンなど 1011,300円; 漢方入浴剤・貼薬材料117,117円;濾紙、ペットボトル27,275円;ダンボール、フリーザーバッグ、粘着テープ、はかり、やかん、容器、アルコール、ハサミ、ピンセット、コットン、レーザープリンターラベル、ペットボトルなど 118,520円;運送費(+郵送費) 356,730円(121回分)

(9/28・水)第118便(ダンボール2箱)
 内訳:(1)マルシマ梅干し2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶5袋、カットわかめ(小)4袋、赤穂の塩4袋  (2)マルシマ梅干し2ケース、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶2袋、徳用ドクダミ茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)4袋、すりごま(黒)4袋
(9/28・水)第119便
 ジュノーの会漢方貼剤(非売品)=一般用60人分、乳幼児用10人分
(9/30・金)第120便(ダンボール4箱・うちクール1)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)4袋
    (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)4袋    
    (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)2袋、すりごま(黒)4袋    
    (4)ジュノーの会入浴剤(非売品)54本・クール便
(10/3・月)第121便(ダンボール5箱・うちクール2)
 内訳:(1)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(大)1袋、(小)4袋
    (2)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ウーロン茶4袋、カットわかめ(小)4袋、すりごま(黒)3袋     (3)味噌20kg、100%ドクダミ茶4箱、徳用ドクダミ茶8袋、タオル4本
    (4)(クール便)ジュノーの会入浴剤(非売品)39本、カットわかめ(小)2袋、タオル5本
    (5)(クール便)ジュノーの会入浴剤(非売品)40本、タオル5本

筑紫みずえさん、錦織恵子さん、島本実夫さん、岡田洋子さん、相沢一正さん、清水昭男さん、内田千寿子さん、ありがとうございました。

  みなさん、ジュノーの会・「梅ドみ募金」に力を貸してください。「梅ドみ」とは「梅干し・ドクダミ茶・味噌」のことです。ヒロシマ、ナガサキを生き抜いた人びとの代表的な養生法を紹介しています。
  毎日1個の梅干し(昔ながらの、天日塩とシソだけの)、毎日1杯のドクダミ茶(ウーロン茶とのブレンドで2~3杯)、毎日1杯の(昆布ダシ、ワカメの)味噌汁――これが基本ラインの目安です。これを毎日続けること。(ドクダミ茶については、?飲みすぎに注意してください。おいしいと感じることが目安です。?妊娠中、授乳中の方は医師か薬剤師にご相談ください。)
  砂糖は摂らないようにしてください。黒ゴマ、自然塩(天日塩)、柿の葉、ニンジン、ハブソウ、ほうじ茶(緑茶は避けたほうがいいのです)などを摂るとよいのです。プレーン・ヨーグルトにも排毒の作用があります。あと、免疫力を高める強力な作用のあるのが「青のり」。青のりを天日塩でうすい塩味にして、ふりかけのようにして食してください。 
 ヒロシマ被爆時には、人びとは藁をもつかむようにして、ある人はドクダミを飲み、ある人はナスの味噌漬けを食べ、ある人はカワラヨモギを食べました。今はいろんな食品で排毒する知恵が見つかっていますので、一つ一つの食品については、過度に食する必要はありません。ドクダミ茶や昆布などは、摂りすぎに注意したほうがよいくらいです。
  たくさんのフクシマ放射能被災者の方々が「梅ドみ」「解毒」を求めておられます。国や県、行政の支援は望めません。待っているわけにはいかないのです。ただちに「解毒」を! 遅れれば遅れるだけ危険が増します。
  どうか、全国の非被災地のみなさんの力で、より多くのフクシマの人々に、「梅ドみ」に代表される「ヒロシマの知恵」を届けてあげてください。そして、ご自分でも、「梅ドみ」を入り口にして、「健康」を求める生活を始めてください。

 いま、私たちは何をすべきか。 
 大筋だけをズバリと言わせていただく。
 まず、初期の医療空白の時代には、呆然と待っていたりせずに、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリで効果があったと伝えられる療法を可能な限り試みることである。
 次に、政治方面の努力を急いでもらって、一日も早く「全科無料定期検診制度」と「全科無料治療制度」を確立すること、そしてそれを守り抜くことである。そのとき、初めて、現代医学は力を発揮するのである。
 (「ジュノーさんのように」第116号より)
プロフィール

JUNOD

Author:JUNOD
ジュノーの会について
「ジュノーの会」は、世界のヒバクシャ支援とくにチェルノブイリ原発事故の被曝者支援に取り組む広島県府中市の市民団体です。会の名前は、被爆後の広島に医薬品15トンを届け、被爆者の治療にあたったスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(1904~61年)にちなんでいます。博士の精神を受け継ぎ、86年のチェルノブイリ原発事故の被曝者支援のため88年に発足しました。会員数は全国に約500人。これまでに延べ約200人の医師を現地に派遣し、甲状腺がんなど1000人以上の患者を診療、一人ひとりの患者さんにカルテ報告を行い、同時に小児白血病治療、血液感染症予防などの医療協力活動、またヒロシマとチェルノブイリのヒバクシャ交流を進めるなど、被災者の側に立った援助活動を続けています。チェルノブイリ被災者市民団体との強い協力関係もあります。

ジュノーの会の郵便振替の口座番号は以下のとおりです。
郵便振替=「01370-0-29460・ジュノー基金」
口座名義は「ジュノー基金」です。ジュノーの会ではなく、「ジュノー基金」です。
通信欄か空白に、「梅ドみ」と明記してください。

他銀行やネットから振込んでいただくときは、以下の振込先にお願いします。
   <他銀行から振込む場合の振込先>
   銀行名ゆうちょ銀行
   ■金融機関コード9900
   ■店番139
   ■預金種目当座
   ■店名一三九 店(イチサンキユウ店)
   ■口座番号0029460

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