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「梅ドみ」第1陣、福島に届きました!

「梅ドみ=梅干し・ドクダミ・みそ」第1陣が福島に届きました!

 福島市のNPO法人「シャローム」の大竹静子代表と電話で話しました。FAXはトナー切れ、電気関係が故障し、ケータイが一番確かな連絡手段です。3月28日夕方府中を発送した第1陣が今日31日に着いたとのことです。①梅干し段ボール1箱、中に糠漬け1袋も入っています。神石、広谷、常金丸などからの家庭の品です。)②ドクダミ(じゅうやく4箱、ドクダミ茶2箱)③(赤穂の塩10袋)④すりごま10袋 ⑤三年番茶3袋 (以上の②③④⑤が一つの段ボールに入っています。)⑥味噌(段ボール1箱、20kg、府中味噌組合・浅野味噌の奉仕品です)⑦玄米 (30㎏入りの段ボールが2箱。神石のご家庭からのご提供です。⑧『ジュノーさんのように』第1巻(5冊)、第2巻(10冊)。皆様、急激な勢いでご提供いただき、ありがとうございました。
 福島の現地では、必要物資もそれを必要とする地域も徐々に変わっていっているそうです。3月30日の段階では、南相馬市には大分物が届くようになったそうで、一方、いわき市から「何も届かない」との連絡が入ったとのことで、第1陣の上記物資は、4月1日にいわき市に入ることになりました。いわきの拠点では、病院、避難所、普通の人々にまで品物を配っているとのことです。
 最初に連絡がついた相手がNPO法人シャロームだったわけですが、ここは「障害のある方たちと様々な行事を組み福島市でパンを焼いており、お店もある」とのことです。運転してくださる方がいて、南相馬市やいわき市に行ってくださっているのですが、この方は、避難中の方で、親類が20人近くも原発近くにいる人とのこと。ジュノーの会では、「梅ドみ」以外に、主食に関しても簡便なレトルト食品ではなく、「治療、養生」の意味で、敢えて玄米を送りつづけたいと思い、大竹さんもそうしていただくのがいいと思います、とのことでした。
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被災者に僅かでも寄り添って(「はんげんぱつ新聞」第396号、2011.3)


大惨事から二十五年が経った(原題)
        甲斐 等(ジュノーの会)

 ウクライナのチェルノブイリ人は今、「もはやこれまで」の状況に追い込まれつつある。被災者も事故処理作業者もその子女たちも、誰もが五つや十は病気を抱えて生きてきた。既に少なからぬ人々が癌などの重病を発症させているが、今ではそれらの疾患がおしなべて重篤化し、家族に見守られることも少なくなっている。見守るべき家族もまた癌などの重篤な病気で身動きがとれないのである。
 ウクライナには健康保険制度はない。無償だった医療は急激に有料化され、無秩序状態となり、理由もわからず高額化していく。被災者や事故処理作業者の年金では、必要な薬を買うことも必要な検査を受けることもできない。なかでも手術料の高さは絶望的で、年金額の5~6ヵ月分は最低限必要だ。人々は菜園や車庫、車、貴重品、つまり一生をかけて手に入れたものを全て売り払い、親戚や知人に借金して、癌の手術代を捻出する。しかし、多くの人は手術後、やがて他界していく。
 ウクライナ政府は早くから「チェルノブイリ法(通称)」を成立させ、無料の検診・治療・保養などチェルノブイリ被災者保護の施策を打ち出していた。財政的基盤は「チェルノブイリ税」。国内全企業に給与分の12%の拠出を義務づけた。しかし、経済の相次ぐ悪化で税収は年ごとに減少し、一九九九年、「チェルノブイリ税」はついに廃止され、被災者援護策は財政基盤を失った。ウクライナは被災者援護の道を突き進み、刀折れ矢尽きた観がある。ヒバクシャ援護の国際世論が高まることもなかった。私たちの責任は重い。
 こんな有様であるが、ジュノーの会では、せめて日本からの医師派遣を継続し、「ヒバクシャの実情把握→検診→受診者へのカルテ送付→治療費援助→一段深まった実情把握→……」の無限サイクルから成る「検診システム=モデル」を深めるとともに、被災二世、三世児童の日本での保養を再開することで、困難を極めるチェルノブイリ被災者に僅かでも寄り添っていきたい、と願っている。
 また、昨年、而立書房から「叢書・民話を生む人びと」の一シリーズとして、『ジュノーさんのように』の刊行を始めた。会報そのままの内容で、完成すると全二十巻になる。「叢書・民話を生む人びと」への仲間入りで、中井正一・山代巴に代表されるヒロシマ民衆との連続性がより鮮明になった。これまでの歩みを振り返り、過ちを踏みしめながら、一歩でも半歩でも前に進みたい。

キエフからの通信(6) ホットスポット、保障問題

3月29日、甲斐等からタマーラさんへ

次の点を教えてください。
1)いま、保障について関心が出て来ています。チェルノブイリ被災者は住居や職業や財産や健康についてどのような保障を得ましたか。それは国家的にはどのくらいの規模の予算でしたか。
2)ホット・スポットについても少し関心が出て来ています。ホット・スポットは何キロくらい離れたところにできるのでしょうか。また、それはどうやったら確認できるのでしょうか。
3)いま原発現場で高い線量の中で、作業員たちが不眠不休で、ろくな食べ物も摂ることなく決死の労働を行っています。こういう人たちへの補償と保障はチェルノブイリの際にはどのようになされましたか。また、そうした「英雄」たちは、今どのように過ごして居られるでしょうか。

3月30日、タマーラさんから甲斐等へ

甲斐さん、
 ホットスポットについて、これは高い放射能レベルということですが、私たちが知ったのはかなり後になってからです。最初のころは測定する可能性はありませんでした。それに状況も一時間ごとに変化していましたから。ずいぶん後になって、放射線値が示された地図が作成されました。その場所を検査したのは専門家と測定員でした。
 国家予算から総額いくらのお金が拠出されたか、答えるのは難しい、当時はソ連邦と各共和国が事故処理の資金を出しました。事故処理作業者の英雄たちについては、残念ですが、彼らのほとんどはすでに生存していないのですから、4月26日に思い出すだけです。残っている人たちも深刻な病気です。年金はわずかです、国が自国の法律を遂行しないのです。いま、多くの障害者たちが、年金の不当な支給について裁判所に書類を提出し、裁判所は肯定的な回答を出しています。しかし、国家にお金がないので、法律は遂行されないのです。
 ではさようなら。ご多幸を祈ってます。
  タマーラ

キエフからの通信(5)

NO.8
3月27日、甲斐等からキエフのタマーラさんへ以下3点を質問しました。

①いつの時点でヨード剤を飲まれましたか?
②「水、赤ワイン、またはお酒をたくさん飲むこと」と書いてくださいましたが、水の量はどれくらい飲まれましたか? 基準値以上のヨウ素、セシウム等が含まれている水でも、たくさん飲んだほうがいいですか? みなさん、赤ワインについては、どのくらいたくさん飲まれましたか?
③ビタミン剤はいつごろから飲み始められましたか? どのようなビタミン剤ですか?

3月29日、タマーラさんから甲斐等へ返事がきました。以下、全文です。

 お役に立てるのでしたら、喜んでご質問にお答えしましょう。
 プリピャチで私たちにヨウ素剤が配られたのは(4月)26日の夜のことでした。それ以前は、こういうものが存在することすら知りませんでした。
 放射能に汚染された水は、決して飲んではなりません。汚染されていないことが確認された水を、1日に2~3リットル、飲んでください。
 赤ワインや日本酒は100グラムずつ1日3回飲んでもよろしい。
 マルチビタミンは成人、子どもともに免疫を維持するために服用する必要があります。
 30キロ圏内に住む人々に、政府が健康に脅威がないといっても耳を貸さないように、伝えてください。直ちに避難して自分たちの子どもを救わなくてはなりません。成長期の身体へのほんのわずかな放射線の影響であっても、のちにさまざまな病気となって現れるかもしれないのです。
 皆さん健康でいてください。私たちの祈りが、更なる不幸からあなたたちを守ってくれますように。

  タマーラ

NO.7 チェルノブイリ被災者の互助組織「ゼムリャキ」は元プリピャチ文化会館の文化活動だった

NO.7
チェルノブイリ被災者の互助組織「ゼムリャキ」は元プリピャチ文化会館の文化活動だった    甲斐 等

 このほど私は、20年来の念願の一つを果たした。個人的な心の儀式のようなものであるが、去る9月21日、キエフのチェルノブイリ被災者の互助組織「ゼムリャキ」の事務所で、プリピャチ市からの避難市民の方々に、概ね以下のようなお礼を述べたのである。
「あなた方がスターリングラードでナチスを打ち破ってくれたおかげで、日本の作家、山代巴は一命をとりとめることができました。私は、山代から多くのことを学んだ人間です。チェルノブイリ事故が起きた頃、私はちょうど山代と日常的に接していました。そのため、山代の命を救ってくれた人々とその係累がヒバクしたという報に接したとき、今度は私たちのほうが何かをしてさしあげなければならない、と感じました。そのことが、私がチェルノブイリ支援活動を始めた動機の一つでした。
 おかげで、山代は戦争中の迫害を生き延びることができ、いろんな活動をし、いろんな作品を残しました。また、山代が、原爆投下後の広島で組織した活動が、ヒロシマで最初の原爆被爆者の会を作ることにつながりました。その山代からさまざまなことを学んだ私が、今キエフの、あなた方のところに来ているわけです。こうしためぐり合いに、私は、不思議な必然性を感じています。前々から、一度、お礼を述べたいと思っていました。山代巴の命を救ってくれて、ありがとうございました。」
 反応は微妙な、複雑な、多様な心の内を感じさせるものであった。何となく面映い、困ったような、なぜ今さらそんなことを言うの、というか、その後の60年の、辛酸と紆余曲折を経た人々の、当然といえば当然な反応であった。
 もう少し詳しく、この日の成り行きについて記すと、私は、この日、チェルノブイリ被災者の互助組織「ゼムリャキ」の活動の来歴を教えて欲しい、と代表のタマーラ・クラシツカヤさんに頼んでいたのであった。「ゼムリャキ」がただの救援組織ではないということは何となく分かっていたので、文化運動としての側面を知りたい、と望んだのである。しかし、タマーラさんは、いつもと同じように、「個人的なことは話したくないのです」と言って固辞するばかりであった。
 そこで、私は、中井正一さんの生涯について、少し話した。中井さんの構想した「下からの委員会」については、特に強調して話した。そして、中井正一、山代巴の流れを引くジュノーの会の成立の経緯を話した。その話の最後に、私は、山代巴の命を救ってくれたことに対するお礼を述べたのである。そして、その最後に、だから「ゼムリャキ」の成立過程、組織形態、活動内容といったものを知りたいのだ、と頼んで、話を締めくくったのであった。
 すると、タマーラさんは、「長い前置きでしたね。」と言って笑った。「ゼムリャキ」を組織してきた過程について、個人的なことも含めて話してみても良い、という気持ちになってくれたようであった。
 以下は、日を改めて9月23日(土)、「ゼムリャキ」代表タマーラ・クラシツカヤさんが話してくれた内容である。「ゼムリャキ」については、今年がチェルノブイリ20年ということで、日本でもメディアを通じて少しずつ知られてきたが、それは、ひどい被害を受けた人々として、チェルノブイリ被災者の会として、あるいは救援の対象として、であって、文化運動としての「ゼムリャキ」ではない。私たちは、旧ソ連時代の光と影、アフガン介入後の戦争の泥沼化、チェルノブイリの大惨事、ソ連崩壊、ウクライナの独立、経済の混迷と生活の貧窮など、歴史的な大問題を立て続けに経験する中で持続されてきた文化運動、というものに対しても、中井さんや山代さんの足跡を辿ることを媒介として、想像力を働かせてみたいものである。

2.タマーラ・クラシツカヤさんの話

2ー1.写真を見ながら 
 お話を活気づけるために古い写真をもってきました。これは私がプリピャチでどういうことをしていたか、その活動の写真です。これをご覧いただければ、何故、今こういうことをしているか、理解していただき易くなると思います。
 これは、プリピャチにあった文化会館の2階でコンサートを行なっている様子です。私は、こういうコンサートを組織する仕事もしていました。
 これは、同じ文化会館の大ホールの舞台です。これは、お笑いのチームを作って競うという企画です。審査員がステージに座っています。この人はキエフの有名な映画スタジオの監督、この人はチェルノブイリ原発の主任技師だった人です。この人はプリピャチ市の芸術学校の先生です。この人はプリピャチ市の当時の執行委員会の人です。これが私です。このときは、チェルノブイリ原発内のそれぞれの部署からチームを出して、お笑いの劇をしたり、歌ったり踊ったりして、芸を見せるんです。この演じている人たちはプロではありません。1981年でした。
 これもプリピャチ文化会館の大ホールです。右の人は原発の主任技師だった人です。これもお笑い隠し芸大会のようなものです。
 これも古い写真ですが、プリピャチ市の野外のダンス場です。ここで、コンサートやダンスなどを行なっていました。
 この写真は、若者のためのディスコという催しで、やはり、文化会館で行いました。この左側の人は今、スラブーチチ市のテレビ局の局長になっています。これは、ディスコの司会をしているところです。84年です。これは、私が歌っているところです。ロシアの民族衣装を着ています。こちらは大人のための催し。こちらは子供のための催し。これも子供の催しの司会をしているところ。これも子供の催し。これは音楽に関するレクチャーをしているところ。
 これは、16歳になると身分証明書が出るのですが、それの授与式。これはワレニキというギョーザを作っているところ。これは、合唱の指揮をしているところです。私は音楽教育を受けましたので。
 この人はショフコシートニーさんという人で、いま詩を書いていて詩集も出している人です。この人はペトロフさんという、いま、絵を描いている人です。この人は当時のプリピャチのスポーツ会館の館長だった人です。これは私です。この人は当時チェルノブイリ建設局の局長をしていた人で、今はイスラエルに移住しています。この人はチェルノブイリ原発の主任技師の一人で、事故後はキエフのそばに火力発電所を建設するという仕事もしました。
 これもステージです。詩の朗読をしているところです。80年です。レーニンの胸像が建っています。その頃は、労働コンクールというのがありまして、その年に一番いい成績をあげた人を表彰するという催しでした。
 これは新年会。3人が仮面舞踏会をオーガナイズしました。82年です。3人の司会者のうちの1人です。
 これも文化会館です。4月1日のエイプリル・フールの晩に、お笑い寸劇をしました。これが私です。この寸劇は、原始時代に最初の労働組合が組織されたというストーリーのお笑いでした。これはマンモスの骨をかじっているところです。これはその続きで、原始時代なので夫が2人いた、つまりこの時代は母権のほうが強かったという設定です。夫の片っ方は料理をし、もう1人は狩りに行くという、そういう4月1日のお笑いの芸を舞台でやったのです。
 これはダンスです。順番で、ロシアの有名な歌に合わせて踊ります。1人の若者が踊っていると、彼のガールフレンドが出てきます。マルーシャという名前ですが、男性が女装しています。そのマルーシャが彼と一緒に踊っていて、彼をぐるぐる回すと、彼は目が回って倒れてしまいます。でも彼女は彼を持ち上げてキスしています。彼女のほうがすごく背が高くて、持ち上げると彼はバタバタしています。さて、この中で私はどこにいるでしょうか? 彼です。これは付けヒゲです。このダンスはステージでもやりましたし、いろんなところでやりました。
 これは、私と姉です。髪の色は姉は黒です。私は赤っぽいのですが。姉は父親似で、私は母親似です。
  
2ー2.プリピャチ文化会館での文化活動

 私の実家はウクライナ南部のクリヴォイローグ(注:曲がった角の意。ドニエプル川が曲がっているところにある都市)にあります。音楽学校を卒業して、最初は、クリヴォイローグの音楽学校で教えていましたが、その後、文化会館に勤めました。仕事の内容は子どもの文化指導でした。ピアノも教えていました。
 80年にプリピャチに引越し、文化会館の、主に青年関係の催しの担当をしていました。サークル活動、ディスコ、コンサートなどをオーガナイズする仕事でした。
 当時、プリピャチは若者が多く、平均年齢が26歳という町でした。私は仕事で忙しく働きました。11のサークルやクラブがありましたし、週に2回はディスコやパーティーのような催しがありました。
 仕事は、量は多かったのですが、面白かったので、大変というわけではありませんでした。当時のプリピャチの若者たちは前向きで、何かしたい、自分を表現したいという気持ちを持って参加してくる人が多かったのです。いろんな催しをする時には、何か面白いことをいろいろ考え出すという想像力も必要ですが、その頃は私もいろいろなことを思いつくのが困難ではありませんでした。
 毎月何かの祝日の催しがあったり、あるいは労働コンクールがあったりして、催しには事欠きませんでした。プリピャチ市内で文化会館というのは一つしかありませんでしたが、しかし、そこには大きなホールがあり、また大きな会議室もいくつもあって、子供のおもちゃなど必要なものも揃えてありました。また、当時は原発から予算が付いていたので、私たちが考えたことを実現する基盤もありました。
 才能のある人もたくさんいましたので、そういう人たちをいろんなサークル活動に誘いました。歌のサークル、ダンス、コンクール等をして、人々の才能を引き出すという活動がさかんでした。詩を書く人、散文を書く人もいましたので、そういう人たちにコンサートやいろんな催しに出てきてもらって、披露してもらいました。
 秋には舞踏会も行い、子どもは子ども、青年は青年、大人は大人で別々に踊る会を催しました。夏には「ネプチューンの日」がありました。プリピャチ川沿いに人が集まって、ヨットやボートの競争をしました。川べりにネプチューンの扮装をした人が出てきましたし、コンサートもありました。また、お正月は町をあげての祝日でした。文化会館の前にツリーが立っていましたが、自然発生的な習慣として、1月1日の午前1時には、みんな、そのツリーのところに雪娘やマローズ(サンタ)じいさんなどの仮装をして集まってきて、花火があったり、アコーディオンやギターで歌ったりして、楽しみました。こうしたことは、自然発生的でした。みんなが好きなことをしていたんです。 
 当時、2月23日はソ連軍人の日で、一般的には男性の祝日でした。また、3月8日は、国際婦人デーで、女性の祝日でした。こういう日には、みんな賑やかにお祝いしました。市内にお店(スーパーマーケット、ショッピングセンター)は二つしかありませんでしたが、2月23日の前は、そこで、男性用プレゼント(男性用化粧品、ネクタイなど)は売り切れになりました。当然、同じように、3月8日の前には、女性向けのプレゼントが店から消えてしまいました。春には春の舞踏会があって、5月1日にはメーデーのお祝いがありました。また時間があれば、メーデーのときの写真などもお見せします。
 詳しく話せば、もちろん、もっといろいろありますけれど、簡単に言うと、プリピャチ文化会館の活動は、このようなものでした。いろんな若者の関心を引き付けるために、いろんなことをしました。私はそうしたとき、司会もすれば、歌も歌うし、ダンスもするし、また、寸劇のシナリオを書いたり、演出もしたり、と、一人何役もこなしていました。
 文化会館のスタッフは若い、いい人が多く、館長さんも、私が働いていた間に2度交代があって、私は3人の館長さんを経験しましたが、3人とも私たちの活動をバックアップしてくれました。若いスタッフたちが、大変熱心にこうした活動を組織していたので、楽しくて、ほとんど休日も休暇もないような働き方で、うちに帰るのは晩だけ、というような生活をしていました。

 2―3.強制避難後、プリピャチ文化会館の活動を再開する

 チェルノブイリ事故の時は、娘が5ヵ月でした。私は育児休暇中でしたので、プリピャチから避難したときは、かばんにオムツを入れて、娘を抱えて、乳母車を持って、……持ち物はそれぐらいでした。いろいろ困難はありましたが、避難して、実家のクリヴォイローグに帰りました。
 その後、夫が10月に、キエフにアパートの配給を受けましたので、私たちも年末にキエフに戻って、アパートに入居しました。息子が生まれたのは、事故の2年後の8月でした。
 キエフに移った当時は、娘の育児休暇という事情があって、87年までは仕事をしていませんでした。娘が一歳になって、育児休暇が終わって、また仕事をすることになりました。
 当時、プリピャチから避難が行なわれた時に、いろいろな役所や施設の関係書類などの移動も一緒に行われ、2箇所に分けて、イワンコフ(?)かキエフに運ばれました。文化会館関係の書類はキエフに運ばれて保管されていました。
 この地区にプリピャチからの移住者は固まって住んでいましたので、この地区で、移住してきた人たちのために、プリピャチ文化会館の仕事を継続するということになりました。
 かってのプリピャチ文化会館の活動が再開されたとき、スタッフは最初は4人でした。館長、副館長(ガリーナ・ノサッチさんでした)、ダンスの振り付けが専門のもう一人のスタッフ、そこに休暇が終わって私が入りました。
私は、どういう仕事をすればいいのですか、と尋ねました。すると、前やっていたことを続けなさいと言われました。いろんな催しやサークルを組織する仕事です。それで、私は、すぐにその仕事に取り掛かりました。
 まず最初に、かって文化会館で一緒にやっていた仲間を探そうと思いましたが、すぐには見つかりませんでした。避難した先がキエフの中でもいろいろでしたし、ウクライナの他の地方へ行った人もいました。最初の頃は、この文化会館には電話もありませんでしたので、口コミで人探しをしました。人づてに手紙や葉書で、また電話のある人は電話で、かって一緒にやっていた人を探してもらいました。
 事故後キエフにアパートをもらって落ち着いた人たちも、知らない土地での新しい生活の中で、みんな、精神的に大変なストレスを抱えていました。そのころ、町を歩いていて、あの人はプリピャチで見かけたな、っていう人と出会います。すると、その人がどんな人かよく知らなくても、お互いに抱き合って、プリピャチのどこで働いていたの? とか、どういうことをしていたの? と、言い合って、自分たちの悩みや不幸を分かち合うことになりました。キエフで住み始めた当初には、そうやって、お互いに自分の打ち明け話をして、精神的にストレスを解消する、ということがよくありました。
 ここで文化会館の活動を再開したとき、私は最初に、そういう、プリピャチから避難してキエフのあちこちに散らばっていた人たちの集まりを組織しました。最初のいくつかの集まりでは、長い間会っていなかった人たちが再会して涙ながらに思い出話をしたり、また親戚とか友人とか、プリピャチで近所に住んでいたといった人たちが再会して旧交を温めたり…、そういうことから、だんだんにまた、プリピャチに住んでいた人たちがつながっていきました。
 こうした集まりから始まって、自然に、みんなが文化会館に、新聞の切り抜きや写真やスライド(当時、はやっていました。)を持ってくるようになり、それが、だんだんコレクションのようにたまっていきました。こちらからお願いしたわけではなく、みんなが自然に、文化会館を情報センターのようなものと見なして、資料をいろいろ持ってくるようになり、雑誌、新聞の切り抜き、アルバムなど、チェルノブイリ事故前と事故後についてのいろいろな情報、文献が集まってきたのです。
 そういうふうにして、私たちの活動がだんだん知られるようになり、活動に参加してくる人も増えてきました。
しかし、その後、スラブーチチの街ができ、そこに文化会館ができた時点で、このキエフの元プリピャチ文化会館は閉鎖されることになりました。

2ー4.出会いの場を続ける

 キエフでそれまで使っていた事務所もなくなりました。ここにサークルなどで集まっていた人たちは、集う場所が無くなって、最初に感じていたようなストレスをまた感じ始めました。
 当時は、そうした精神的にダメージを受けた人のカウンセリングということも一般的ではありませんでしたし、私たちもまだ、そういうことは、していませんでした。しかし、やはり、出会いの場を続けて欲しいという希望があって、それからしばらくは、映画館や学校、その他の施設を借りて、新年会を開いたり、また4月26日には何が何でも集まるというふうにして、単発的に続けるようにしていきました。展覧会も行いました。
 そうした活動を続けているうちに、キエフの、ソ連時代からある、有名な映画スタジオの人が関心を持って、ドキュメンタリーを撮りたい、と言ってきました。また、モスクワの心理学者が興味を持ってやって来たり、あるいは、ドイツの女性たちが関心を持ってやって来たり、と外部からも関心をもたれるようになって、特定の場所はないという困難はありましたけれども、活動は続いていきました。
 一方、壷やイコンなどが、汚染地域に残っていたものを保存したいということで持ち込まれるようになり、私の家のベランダにだんだんたまっていきました。子ども二人はまだ小さかったので、活動がちょっとしんどくなり、誰か他の人に引き継いでもらおうと思ったこともありましたが、そういう人が見つからないまま、私は活動を続けました。
 93年になりますと、キエフ市内にチェルノブイリ原発の支所ができました。チェルノブイリ原発の問題に関心を持ってやって来る人をそこで受け付けるためです。すべての人が原発まで来るというのは、なかなか大変なので、キエフに支所を作って、そこに当時の原発所長自身が来て代表団と会うのです。 
 その頃になりますと、私たちの集まりについての情報もだんだんと知られるようになっていましたので、私も原発支所に呼ばれ、そこで、当時のチェルノブイリ原発所長のパラシンという人に会いました。そのとき私が、活動内容のアルバムやいろいろな書類などを見せますと、彼は目を丸くして、「私はこういうことをやるべきだと思っていました」と言いました。
 そのときパラシン所長は、こういう活動を続けていくためには場所が必要ですね、と言ってくれましたので、私も、前からそう思ってはいるのですが…、と言いました。すると、彼は、「じゃあ、場所を見つけてください。金銭的援助はしましょう。」と言ってくれました。
 おそらく今の甲斐さんのお宅もそうかと思いますが、私は、その頃は自分の家に全部持ち込んで、活動をしていました。書類とか電話での話ばかりでなく、人が家に話しに来たりとか。朝も晩もそういう活動を家でしているということに、夫はだんだん難色を示すようになりました。
 そういうこともあって、活動の場を何とか確保するということが必要になっていました。実際に入手するまでには、一年ぐらい、いろいろな役所まわりをし、書類を作り、法的な手続きをいろいろ行なって、地区行政のほうにも陳情して、と、大変煩雑だったのですが、もう後には引けないということで、あらゆることをしてみました。
最初手に入った場所は、ここから少し離れた幼稚園の一角でした。そこを家賃を払って借りたのです。資金がありませんでしたので、改修や内装は自分たちでやり、必要な家具は、許可を得て、プリピャチや当時のチェルノブイリ市から持ってきました。棚、机、椅子などを持ってきて、洗って使うのです。私たちは、お金がありませんでしたので、それで満足していました。
 ところが、こうして、活動の場所を得て、家具も入れた後になって、また、そういう目的に使ってはいけない、などと横槍が入りました。そこでまた、それを陳情して解決して、というようないろいろな問題がありまして…、そのとき、私は健康を害して、入院したりもしました。 
 しかし、何とか、そうした苦境を退けて、その使えるようになった場所で、展覧会をしたり、集会をしたり、子供の集まりをしたり、と、いろいろな仕事を始めることができるようになりました。場所はあっても活動資金はありませんでしたので、甲斐さんが私費をなげうたれたように、私の場合も、そんな額ではありませんでしたが、例えば食器を買ったりすることなどに、育児休暇の手当てなどの自分のお金を使いました。また、場所ができたということになると、地区の執行委員会(行政)の人を呼んだり、あるいは関係省庁の人を呼んだり、代表団の訪問を受けたりというときの対応もしなければならなくなります。そういうときには、自分でケーキを焼いて、もてなしをする、というふうにしていました。
 チェルノブイリ原発からは、その場所の家賃と、その他多少の支援はありましたが、それ以上のものではありませんでした。一緒にやってくれるスタッフを探すのも大変でした。というのは、その頃はみんな給料が安く、生活も苦しかったのです。
 それでも、何とか、スタッフを集めることができました。入れ替わりはありましたが、しばらくやってやめる人がいると、また別の人が来るという具合で、何とかスタッフを確保してきました。
 最初に外部から資金援助があったのは、ユネスコの支援でカウンセリングを行なうというものでした。
従来文化会館で行なっていたような、子どもや大人のための催しも、この新しい場所で始まりました。面白かった。また、いろいろ才能のある人も集まってきて、参加してくれるようになりました。

2ー5. ゼムリャキ!(同郷の人!)

 私たちの団体の名前は、私たちのやってきたことにぴったりでした。
 さきほどお話ししましたように、それぞれに辛酸をなめた強制避難の後、当初、キエフで、顔は知っているけれども名前は知らないというプリピャチの人たちが、お互いに顔を見合わせて、抱き合って、最初に発した言葉が、「ゼムリャキ(同郷の人)!」だったのです。それが、私たちの団体の名前になりました。
「ゼムリャキ」という団体は、甲斐さんが言われていたような、「下からの組織」、人々が自発的に集まって一緒に何かをしたい、そういう組織を作りたい、という気持ちからできた、と言えます。共通の志向、関心が私たちを団体にまとめたのです。
 その後、さきほどのパラシンというチェルノブイリ原発所長は退職して、別の人が所長になり、私たちの団体への家賃の支援がなくなりました。そこでまた、私たちの闘いが始まりました。家賃は払えない、たまっていく負債をどうしたらいいか、という問題を解決しなければなりません。
 一方、その当時使っていた幼稚園には、私たちの隣りに別の団体が入りました。それは、バツーラさんという人の「家族の救援」という団体です。そして、彼らは、自分たちにとってこの場所は手狭だ、と言い始めました。彼らは、ゼムリャキが使っているところも自分たちにとって必要だ、と言うのです。一年間ぐらい、それに対して私たちとしても闘いました。しかし、最終的にバツーラさんのほうが、医療センターをそこで始めるということを根拠に、私たちが使っていたところも彼らがそのセンターのために使うということで、話を決めてしまいました。その結果、97年に、私たちは、今のこの幼稚園に移りました。
 この新しいところに移ってから、また、改修して、必要なもの、家具などをそろえて、と、以前と同じことをしました。その後は、今に至っています。朝から晩まで、いろいろな仕事をしています。サークル活動、いろんな教室、パーティー、催しなど、あれこれやっています。そして、98年からは、ご存知の国際キャンペーン=「地球を救おう」の呼びかけもするようになりました。
       (以上、第一回目の聞き取り分。)

2006.11.15発行「中井正一研究会会報準備号」第73号より

キエフからの通信(4)

親愛なる尊敬する甲斐さん、私たちはあなたのことを心配しています。お元気でしょうか。

私たちはいま、いつもより頻繁にテレビの前で、日本からのニュースを見守っています。私たちはいま、これまでになく、お互いの国民が義兄弟だということを感じています。以前、私たちはあなた方の経験から学びましたが、今度はあなた方が、私たちに学んでください。
ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリ、そして今回の大規模な大惨事は、天災や原発事故に対して、人間がいかに無力であるかを示しています。ほんの数分で人生が一変し、何千人もの人の命が途絶えてしまうのです。犠牲者の家族の悲しみはいかばかりか、ことばで表すことはできません。
25年前の私たちに伝えられたのと同じように、住民のパニックを引き起こさないように、真実のすべてがニュースで語られているとは思っていません。私たちは、あなた方に役立つかもしれない知識を分かち合う用意があります。できるだけ外出しないこと、頻繁に身体を洗うこと、水、赤ワイン、またはお酒をたくさん飲むこと、ヨード剤を服用すること、あるいはヨードを含んだ海藻類を食べること、家の外ではマスクを着用し、帽子やスカーフをかぶること、ビタミン剤を飲むこと。残念ながら、私たちがこのような予防策を知ったのはずっとあとになってからでした。少しでもあなた方のお役に立てればと思います。
私たちは、神様がこの困難な時にあなた方をお助けくださるよう、日本のみなさんのために毎日祈っております。そしてこの深い悲しみの日に、あなた方と悲しみをともにしています。親愛なる甲斐さん、お体をおたいせつに。どんな援助でも必要になりました時には、私たちにあるものすべてを分かち合う用意があります。私たちは、日本人を自宅に引き受け、お世話する用意があります。いま、私たちの団体の非常にたくさんのメンバーから電話があり、援助の申し出があります。心からご健康、オプチミズム、精神力、頭上の晴れたきれいな空を願いつつ。
  タマーラと「ゼムリャキ」

2011年3月19日着信

キエフからの通信(3)

親愛なる日本のみなさま

私たちウクライナ人、とりわけチェルノブイリの被災者は、あなた方の国で起きている出来事を案じ、心配しております。自宅を失うこと、生まれ育った故郷を離れ、故郷の土地が立ち入り禁止区域になったため、ふたたびそこへ戻れないこと、それがどんなことか、私たちは世界のだれよりもよく理解しているのです。
 いまあなた方の国は非常に困難な状況におかれていますが、私たちはそれを乗り越えるお手伝いをしたいと思います。25年前、私たちはすでに同様の状況を体験しました。それは、恐怖でもあり、茫然自失でもあり、寄る辺のなさでもあったのですが、私たちはすべてを乗り越え、生き延びることができました。生き延びる助けとなったのは、善を信じ、神を信じること、そしてもちろん、健康を維持するための一定の行動でした。事故後、私たちは、甲状腺に放射性ヨウ素が蓄積しないようヨード剤を服用し、個人の衛生を厳しく守りました。外から建物に入る時には、ぬれ雑巾で靴のほこりを拭きとりましたし、手を洗い、部屋の中を頻繁に雑巾がけしました。髪についた放射能はあまり除去できませんので、帽子やスカーフをかぶって髪を覆うこともたいせつです。
 親愛なる友人のみなさん、どうぞ勇気を持ち、団結し、冷静さを失わないでください。そして、原発の不幸があなた方を迂回しますように、ツナミや地震が陸地ではなく、大洋の中でのみ起こりますように願っております。
 愛とお見舞いの気持ちをこめて。
「ゼムリャキ」メンバー、ガリーナ・ドンドゥコーヴァ
キエフ、2011年3月17日

キエフからの通信(2)

親愛なる日本の友人たちへ

あなた方の不幸を知り、たいへん残念で、お気の毒に思います。多くの苦難に見舞われた国からの現地報告を、じっと息を殺して見守っています。地震や津波の恐ろしい映像、原発の爆発のむこうに、人々や国の運命が見えるのは、おそらく、私たちのほかにはいないでしょう。私たち自身も、チェルノブイリの大惨事という、同様の体験をしたからです。カメラマンの仕事を通してすべての映像を見たわけですが、私たちの眼前で、あなた方国民は、この悲劇に立ち向かおうと団結していました。地球上のすべての人々にとって、あなた方は英雄です。
パニックもなく、恐れもせず、生存者を救うために、天災の打撃の影響を減らすために、可能なことすべてをやっておられます。
私たちも、人やわが子への放射線照射の影響を減少しようと試みていた、四半世紀前を否が応でも思いだしています。濡らしたシーツで窓を覆ったこと、極度の必要性がない限り外出を控えたこと、頻繁にシャワーを浴び、下着を取り替えたこと、食料の清潔さに注意を払ったこと。このような状況時のためのヨード剤を特別班が自宅に直接届けてくれたことも記憶しています。もしかしたら、こんな記憶が救助に役立つのではないかと思って、書いています。残念ですが、放射能からは長期間に渡って身を守る必要があるのです。
私たちは、あなた方を支援したいと思っています。《ゼムリャキ》クラブのメンバー全員が、物資、衣服、その他人道援助物資を集める用意があり、また人々を受け入れる用意もあります。大使館にもこのことを照会いたしました。私たちは、成人も子どもも喜んでお引き受けいたします。毎日、クラブに人々がやってきますが、お見舞いのことばを述べるためだけでなく、被災者を具体的に支援し、あなた方の運命に降りかかった試練の一部を分かち合おうとしているからです。
私たちはあなた方と苦難をともにし、あなた方のために、またあなた方の救援と復興を願って祈っています。あなた方の悲しい出来事を知り、わたしたちウクライナ人をはじめ地球上のすべての人々が同情し、援助いたします。
犠牲となられた方のご家族に心からお悔やみ申し上げます。もっとよくなりことを、そして一日も早い国の復興を願っております。

《ゼムリャキ》全員を代表して
     ラリサ・ルドゥイク

3月17日着信

キエフからの通信(1)

尊敬する甲斐さん!!!
あなたやご家族はご無事でしょうか??? 


私たちは不安にとらわれつつ日本での出来事を見守っており、日本の方々が見舞われたご不幸に心を痛めています。この出来事は、私たちが天災と原子力という怪物に対していかに無力であるかを改めて立証しています。私たちは皆、心をこめて日本の方々のために祈り、すべてが解決され、罪のない人たちがこれ以上苦しむことのないよう衷心より願っています。
あなた方が長年にわたって私たちを支援してこられたように、私たちもまた進んであなた方に支援の手を差し伸べさせていただきたいと思います。寄附するお金や衣類を集めたり、またこちらに住む場所を提供したりという形で。今、日本の多くの方々は住居を失ってしまったわけで、私たちは夏の間子どもたちをホーム・ステイさせることができます。
何か支援を必要とされているかどうか、どうぞお知らせ下さい。
 あなた方は私たちにとって本当に大事な方々です。皆さんのことを本当に心配しています。
 あなたがゆるぎないご健康に恵まれ、すべての不幸があなたを避けて通りますように。

 タマーラ

3月14日着信

チェルノブイリ被災者からのアドバイス

キエフのチェルノブイリ被災者市民団体「ゼムリャキ」の代表タマーラさんからのアドバイスをお伝えします。

できるだけ多くの人びとに、特に福島周辺の人びとのもとへ、このアドバイスを伝えてください。
チェルノブイリ被災者の生の声を、日本中に届けてください。


(ゼムリャキ代表タマーラさんから甲斐等へ)
私たちは、あなた方に役立つかもしれない知識を分かち合う用意があります。
できるだけ外出しないこと、頻繁に身体を洗うこと、水、赤ワイン、または日本酒をたくさん飲むこと、ヨード剤を服用すること、あるいはヨードを含んだ海藻類を食べること、家の外ではマスクを着用し、帽子やスカーフをかぶること、ビタミン剤を飲むこと。残念ながら、私たちがこのような予防策を知ったのはずっとあとになってからでした。少しでもあなた方のお役に立てればと思います。

(甲斐等からタマーラさんへ質問)
①いつの時点でヨード剤を飲まれましたか?
②「水、赤ワイン、またはお酒をたくさん飲むこと」とのことですが、水の量はどれくらい飲まれましたか? 基準値以上のヨウ素、セシウム等が含まれている水でも、たくさん飲んだほうがいいですか? 赤ワインや日本酒はどのくらいの量を飲めばいいですか?
③ビタミン剤はいつごろから飲み始められましたか? どのようなビタミン剤ですか?

(タマーラさんから甲斐等へ)
お役に立てるのでしたら、喜んでご質問にお答えしましょう。プリピャチで私たちにヨウ素剤が配られたのは26日の夜のことでした。それ以前は、こういうものが存在することすら知りませんでした。
放射能に汚染された水は、決して飲んではなりません。汚染されていないことが確認された水を、1日に2~3リットル、飲んでください。赤ワインや日本酒は100グラムずつ1日3回飲んでもよろしい。マルチビタミンは成人、子どもともに免疫を維持するために服用する必要があります。30キロ圏内に住む人々に、政府が健康に脅威がないといっても耳を貸さないように、伝えてください。直ちに避難して自分たちの子どもを救わなくてはなりません。成長期の身体へのほんのわずかな放射線の影響であっても、のちにさまざまな病気となって現れるかもしれないのです。皆さん健康でいてください。私たちの祈りが、更なる不幸からあなたたちを守ってくれますように。
プロフィール

JUNOD

Author:JUNOD
ジュノーの会について
「ジュノーの会」は、世界のヒバクシャ支援とくにチェルノブイリ原発事故の被曝者支援に取り組む広島県府中市の市民団体です。会の名前は、被爆後の広島に医薬品15トンを届け、被爆者の治療にあたったスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(1904~61年)にちなんでいます。博士の精神を受け継ぎ、86年のチェルノブイリ原発事故の被曝者支援のため88年に発足しました。会員数は全国に約500人。これまでに延べ約200人の医師を現地に派遣し、甲状腺がんなど1000人以上の患者を診療、一人ひとりの患者さんにカルテ報告を行い、同時に小児白血病治療、血液感染症予防などの医療協力活動、またヒロシマとチェルノブイリのヒバクシャ交流を進めるなど、被災者の側に立った援助活動を続けています。チェルノブイリ被災者市民団体との強い協力関係もあります。

ジュノーの会の郵便振替の口座番号は以下のとおりです。
郵便振替=「01370-0-29460・ジュノー基金」
口座名義は「ジュノー基金」です。ジュノーの会ではなく、「ジュノー基金」です。
通信欄か空白に、「梅ドみ」と明記してください。

他銀行やネットから振込んでいただくときは、以下の振込先にお願いします。
   <他銀行から振込む場合の振込先>
   銀行名ゆうちょ銀行
   ■金融機関コード9900
   ■店番139
   ■預金種目当座
   ■店名一三九 店(イチサンキユウ店)
   ■口座番号0029460

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